●「夜明けまでの夜」(保坂和志)では、一方に、若い友人から即時的にメールで送られてきていた二匹の子猫の一夜もたなかった命の成り行きがあり、もう一方に、アウグスティヌスとエックハルトの言葉がある。これはどちらも言葉として作者(話者ではなく作者と言うべきだろう)に送り届けられる。そしてこの二つの異なる種類の「言葉」の間で、作者の猫にかんする様々な記憶が明滅し、思考の流れが形作られる。
一方の言葉(若い友人)は、作者に猫にかんする様々な具体的な記憶を惹起させると同時に、それが文字(言葉)であることによって具体像をもたないものでもある。体が温まった、もぞもぞ動いた、ミルクを飲んだ、また冷たくなった、てのひらで温めつづけけた、てのひらより温かくならなかった、と、リアルタイムで逐一報告されるそれらの「言葉」は、生命の終息をリアルに伝えるものであるが、同時にあくまで「文字」である。言葉によって惹起されるのは記憶であって新たな経験ではない、と書かれる。しかしそれでも、遠いところで起った子猫の死は、新たな出来事としてあり、その出来事のもつリアルさが減じるわけではない。
新たな感覚(経験)をもたらさない、新たな出来事としての子猫の死。おそらくその感じが、記憶のなかの猫と現実に今し方命を失った猫とを結びつける。《ペチャもそれとちかい状態だった》、《ペチャはそれで助かって、それから二十二年四ヵ月生きた》、《あのときに助からなかったら……ということはしょっちゅう考えた》、《ゆうべ助からずに名前もないまま死んだ子猫と生死が分かれたそれは並行していると感じた》。命を失った子猫たちには、助かって生きた並行の時間があり、助かったペチャたちには、助からなくて存在しない並行の時間がある、と作者は感じる。この世界の内に、子猫とペチャとの並行性があり、子猫の世話をした若い友人とペチャの世話をした作者との並行性がある。ならば、顕在的な死んだ子猫と潜在的な生きた子猫の並行性、顕在的な生きたペチャと潜在的な死んだペチャとの並行性もあるはずだろう、と。
冒頭の部分で早々に示されるこのような感覚(認識)は、様々な記憶の明滅と思考の流れを経ることで、「胎児の初期において人は一時的に一卵性双生児であった」という感覚(認識)へと至る。次の引用部分はこの小説のクライマックスの一つだろう。
《そうなる柔らかい粘土のような、心がいま何を求めているかを自分より先回りしてどんな形にも塑型するそうなる元、だからそれがその元のさらに起源が、自分の胎児だったごく初期に流産した一卵性双生児の片割れなのだとしたら、生きる自分は生きなかったそっちが自分だったかもしれない片割れとずっと一緒にいる、……、そうでなく自他の区別を知らない胎児はすでに死んだ片割れを生きるのかもしれない、命に、見える聞こえる形ある状態が出会うのだ。》
(「猫がこなくなった」では、話者と高平君との猫に関する経験が鏡像のように似通ってクロスして、どちらがどちらか判らなくなるのだが、「夜明けまでの夜」で並行性(双数性)は、鏡像的ではなく、生と死、存在と空というペアとなり、無が有を支え有が無を支えるという、図と地のような関係になっている。)
もう一方の言葉(アウグスティヌスとエックハルト)は、「神」は、感覚として具体的に与えられるものによっては決して捕らえられないと語る。人が、感覚可能な何かのなかに「神」を感じたとしたら、それは決して「神」ではない。「神」は感覚可能をものを通して人に語るのではなくただ「精神」を通じて人に語るからだ、と。感覚可能なものという媒介を一切なしにしてどのように「精神」がたちあらわれるのかうまく想像できないのだが、このような言葉がとても強いのは、このようなことは「言葉」を通じてしか言うことが出来ないからだろう。もし言葉がなければ、「一切の感覚可能なもの無しで」ということを思考することそのものが不可能となる(例えば、感覚可能なものだけを使って「無」という概念を表現し、思考することは困難だろう)。逆に考えれば、このような思考は、人から外在するものとしての「言葉」によって強いられ、言葉が存在するという事実によって裏打ちされるとも言える。
作者は、このような言葉(思考)に強い説得力を感じつつも、自分自身がそのような思考と同化することは断念する。これはこの小説のもう一つのクライマックスであり、結論でもあると思われる。
《それならば、私は、一切の過ぎ去りゆく生き物をひとつの無として映ることが不可能な私なのだから、神を見るのも命の実相を見るのも、アウグスティヌスやエックハルトに委ねるしかない、私は限りある期間しか生きられない生き物たちを決して遠景から見るような、身に不釣り合いな真似はせず雨音のひとつが落ちる音を最大に増幅させる、アウグスティヌスもエックハルトも神はいると言ったのだ、安心しろと私は私に言う。》
《二匹の猫の命はほとんど極小だった、有限なものが極小となってあらわれたということが真実の予兆あるいは影、あるいはまだどこかに人の気配の残る無人の部屋だ、私は昔見たベルギー象徴派の無人の部屋の絵が忘れられない、どんなにささやかなものでもささやかであるほどそこに真実はあらわれる、真実は五感を経ないのだから五感をともなわなければ働かない人の思考はまず、ささやかさに注目し、ささやかさに傾聴しなければならない、ささやかであることは五感が無力であることのサインなのだ。》
さらに、「夜明けまでの夜」で重要なの次のような感覚(認識)だろう。
《(…)私の若い友達が必死にてのひらで包んで温めたその必死さは若い友達の意思でなく子猫二匹が結局は叶わなかったが若い友達が子猫に出会ったそのとき子猫が生きようと必死だったからだ、若い友達が必死に温めたことで人は子猫の必死さを形として見た。》