2021-01-11

保坂和志の小説的思考塾、リモート配信テスト版を視聴。気になったことのメモ。

●はじめて見聞きするような驚くべき見解ということでもなく、自分でも既に何度もそう考えたことであっても、それを、改めて人の声として聞く(他人の書いたものとして読む)ことによって、出会い直すことも必要だろう。

●『プレーンソング』は、何を書きたいということがないまま書き出すことができた。何を書きたいのかが分からないまま(ただ書きたいという感じで)書けたことが、あの小説の良さだ。だから、みんなどう読んでいか分からなかった。今まである小説の読み方に無理矢理に当てはめたような評し方しかされなかった。そこそこ評判はよかったが、ずっと、納得いくような読まれ方をしなかった。

●何かを書くときに、こういうことを書いて人に分かってもらえるだろうかということを、どうしても考える。だけど、分かってもらおうとすることによって、どんどん変なことになっていく(書きたいという感じからズレていく)。しかし、分かってもらえるだろうかということをまったく考えないということもできない。人は、他の人(たち)の存在、他の人(たち)との関係なしで、「自分」にはなっていないので(「自分」のなかには既に「他の人たち」が織り込まれているので)、これは通じるのかということを考えないで書くこともできない。

ベケットの小説でさえも、具体的なことがいろいろ書いてある。題材がいろいろ並んでいる。風景、母親のこと、病室のこと、それらについて書いている。しかし、読んでいる時は、それら(書かれている題材)を読んでいるわけではない。何を書いたかということではない。何を書きたいか、ということがない。ただ書く。書くために書くというほどの「ため」さえもない。書いているから書く。そういう感じを読んでいる。

●私個人として書いているはずが、問題を一般化、社会化してしまいがちなのは、一つは「勇気がない」ことと、もう一つは「応援が欲しい」という感情があるから。「応援が欲しい」という感情はとても強く働くけど、ここについてはいけない。

(「困難として人に分かってもらえるようなもの」に依らない。「困難」についてはいけない。ただ「書きたい」という感じにつく。ここに、保坂さんの芸術にかんするとても強い潔癖さがあるように思う。)

小島信夫は、書くことによって、自分のインプットのプロセスがみえてくるから、、あなたも書きなさいと人に勧める。書くことが生きていること。ペーター・ブロッツマンは、「生きるために吹く」から、「生きてるから吹く」となり、「吹いてる限りは生きている」という感じになっている。それ以上の「表現」を演奏に入れていないようにみえる。

●たとえば、『未明の闘争』で、一週間前に死んだ篠島が歩いていたという場面について、「篠島」は「死の島」であるというように、裏の意味(隠された意味、組み込まれた意味)を読む読み方がある。カフカの『城』の冒頭は、白(雪)と黒(夜)の世界で「死」を表現している、とか。だが、裏の意味は、解読された途端にたんに表の意味になる。そうではなく、面白さというのは、決して表にならない底の方で動いているようなもののことだ。

●『失われた時を求めて』のつまずく場面。このような場面を、計画するのではなく、そこを目指すのでもなく、そのような未知の何かが「来る」ことを期待しつつ待つ(書く)。