●東工大の講義のために、昔読んでそれっきりになっていた小説を改めて読み直し、精読するのはとても楽しいことなのだが、一方、それによって現代の作品に触れる余裕がほとんどなくなってしまうのは悩ましいところだ。映画を全然観ていないし、送られてくる文芸誌が封を切られないまま放置されていたりする。基本的に「軽薄な新しいもの好き」なので、というか、軽薄な新しいもの好きでいたい、と思っているので。
正確に言えば、小説を読むこと自体はただ楽しくて負担はないのだが、それについて講義する(ことを想定する)ということによって余裕がなくなる。話すよりも書く方が楽、というくらいに話すことが苦手ということもあるので。
「小説を読む」講義で、「読む」という語には「解釈する」「解読する」という意味もあるし、勿論、それも含まれるのだが、文字通り「読む」ということにウェイトが置かれる。短い小説なら、100分の講義のなかでまるまる全部「読む」し、長い小説でも、全体の構造や成り立ちを説明した上で、重要な場面や面白いところをピックアップして、下のような感じでテキストを示して「読む」。一文、一文、読みながら、その文についてコメントしていく感じ(下の画像はムージルの「トンカ」)。
この「読む」ためのパワポを作ることで、(本のページ割りとは異なる)小説のカット割りというか、場面割りを、視覚的に改めて意識できるのはとても面白い。