●『ゼーガペイン』、最後まで観た。面白かった(以下、ネタバレ注意)。
物語的な着地点は一見、「バーチャル」から「リアル」へ、「永遠を求める」から「今を生きる」へ、という感じで、ありがちな終点ともみえるけど、そこに至るまでの過程で、最後の最後まで何度も足元がひっくり返される。そして、過程の複雑さは、結果の単純さの意味をも書き換える。結局、一度滅亡してデータ化した人間が、実体化に成功して再び身体を得ることになるのだけど、それで何が変わるのかと言えば、時間が前へ進むという点と、自然へのアクセスが可能になるという点が変わる。
前者は、作品のラストで妊娠したカミナギの姿によって示される。サーバ内のシミュレーション世界は、大人のいない世界であると同時に、新たな者(子供)の生まれない世界でもあった(子供=新たな個体が生まれないという点は、無限に進化をつづけているという敵方のガルズオルグも同様であるはず)。そのなかで、一度死んで記憶を無くして蘇ったキョウは、半ば新たな者(子供)であることによって時間をすすめ、世界を変革できたとも言える。
後者について。サーバ内でデータとして生きている限り、関与することが出来るのは、データ同士、データを転送することの出来る空母やロボット、そして鏡像的な分身である「敵(ガルズオルグ)」のみであろう。つまり、データでいる限り、「仲間と一緒に機械を使って敵と戦う」という形でしか「世界」と関係することが出来ない。そして「敵」とは自分自身の似姿に過ぎない。データを転送できないものには触れることすら出来ない世界とは、人間(人間的なもの)の範囲内だけで出来た世界ということと同じだ。大げさに言えば、要するにデータ世界には「人間関係」(人間関係によって表現されるもの)しかない。サーバ世界が閉じられているとすれば、そこには人間しかいない(人間のつくったものしかない)、ということだ。しかし身体をもつことで「人間以外のもの」にも触れることが出来る。というか、環境や自然に直接アクセスできるようになるということは、人間以外のものにも大きく干渉されることになるということでもある。そしてここで前者とも関わる。人間以外のものに触れることの出来る(人間以外のものに干渉される)身体によってはじめて、人間は新しい人間をつくる(子供をつくる)ことが可能になるのだ。人間の力だけでは、「新しい人間」をつくることは出来ない(しかしそこにはシズノという例外がいて、この前提をひっくり返してしまいかねない、そこがまたこの作品のひねくれた面白いところなのだが)。
だからここで、「バーチャル」から「リアル」へ、ということの意味は、「データ」から「実体」へ、「無限」から「限定」へ、という単調なことではない。それだとたんに身体礼賛でしかなく、「普遍」に対する「個物」の優位という問題でしかなくなる。それは「個物」に対する「普遍」の優位を主張する敵、ガルズオルグ(ナーガ)の裏返しでしかない(鏡像的闘争関係から抜けられない、勝利したことにならない)。そうではなくて、「人間同士が関係(闘争)する世界」から「人間もその一部である世界」へ、ということであり、「心身問題」から「環境問題」へ、ということであるはずなのだ(デフテラ領域を破壊しなければならなかったのは、もし将来身体を獲得できたとしてもそのなかでは生きることが出来なくなるからで、ガルズオルグが「敵」なのは、直接的な殺人者(データ破壊者)というだけでなく、将来にわたっての環境破壊者でもあるからだ)。つまり、ここではむしろ「拡張」が問題になってさえいる。というか、限定による拡張という感じ。この点こそが、ナーガに対するキョウの優位なのだと思う。