2023/10/13

⚫︎『サロメの娘 アナザサイド (in progress)』(七里圭)をU-NEXTで観た。

⚫︎七里圭における母と娘と、高橋洋における母と娘の違い、七里圭の紗幕へのプロジェクションと、高橋洋の壁へのプロジェクションの違いについて、時間をかけて考える必要があるかも、と思った。

⚫︎「音から映画を作るプロジェクト」ということだが、まず最初に、非常に濃厚で緊密なテキストがあり、次に、そのテキストに基づいて作られた音楽作品(録音されたもの)があり、そして最後に映像がやってきてそこに重ねられる、という理解でいいのだろうか。

⚫︎「山に行ってきます」と書かれた書き置きを「わたし」が発見するところから始まる母とわたしとの記憶を巡る語りが、複雑な道を行きつ戻りつしながら進行する。そしてその歩みが、無意識に歩いてたどり着いた家に入り込んだわたしが、テーブルの上に自分の字で書かれた「山に行ってきます」という書き置きを発見することで、メビウスの帯を一周したようになって、「母」と「わたし」との位置が入れ替わって、この映画の前半は終わる。次いで唐突なように、飴屋法水による語りと「馬」のイメージが現る。前半、黒田育世(母)が座っていたキッチンの椅子に後半は長宗我部陽子(成長した娘)が座り(座の交換)、前半は不在だった「父」からの手紙が読まれる。そしてそこには「大変なことが起きた」と綴られている(前半の終了間際にも、「そんなつつもりじゃなかったが、もう取り返しがつかない、唐突に時が動き始める」と語られる)。

後半では、テキストの語りが多重化され、意味を聞き取ることがかなり困難になる(異なるテキストが同時に読まれたり、同一のテキストが時間差で重ねられたりする)。前半で、母とわたしとの語りの流れを中断する別の流れとして挿入されていたワンダーフォーゲル部のイメージに取って代わるように、後半では飴屋法水が登場する。ここで飴屋が「父」のイメージを背負っているようにも見えるが、そうではなくワンゲル部と同様に「別の流れ(オリジナルの『サロメ』と関連する流れ)」としてあると考える方がいいように思った(ワンゲル部は『サロメ』を上演する劇団と重ねられていて、だとすると、飴屋は演出家としてあり、演出家という位置が父と重ねられているのかもしれない)。途中で、母の時間が逆流して母は歩むごとに若くなり、制服の少女にまで若返ったところで、その時期に「わたし」が孕まれたことが告げられる。このとき、これまで帽子がわたし(娘)、メガネが母を象徴するオブジェクトだったのだが、実はメガネは「父」のものだったかもしれないことが仄めかされる(古びていて、母には大きい)。最初からずっと、山や登山と絡めて語られてきた母とわたしの道行(物語)が、最後に砂丘にたどり着くことで映画は終わる。

⚫︎大雑把になんとか記述してみた上記の「あらすじ」は、しかしほとんどがテキストのレベルでの「あらすじ」であり、これが音楽になり、さらに映画になっている。昨日の日記で「実の透明性」ということを書いたが、この作品は、脚本が映画化され、その映画のために音楽が被せられるというのではなく(この場合、脚本や音楽は完成された映画に組み込まれることになる)、テキストと音楽と映像が、それぞれに自律したままで重ね合わされている。だから、出来上がった映画を観て、そこからテキストだけを切り離すこともできるし、目を瞑って音楽作品として聞くこともできる。たとえて言えば、三枚の紗幕があって、それぞれに別の映像が投射されていて、観客はその三枚の幕を透かして見ているようなものだ。三枚の幕はあくまで別々にあり、たまたまそれを重ねて見ることのできる位置に観客がいるということに過ぎない。しかし、この三枚が重なることで、映画になる。三枚が重なった場所にのみ、映画が出現する。これが「実の(リテラルな)透明性」という言葉で言いたいことだ。

⚫︎ただし、この三つの層は同等というわけではない。時間的な順序がある。まずテキストがあり、次に音楽があり、最後に映像がやってくる。その意味で、映像が最も自律性が低い。テキストが最も自律性が高く、テキストだけでも十分に表現として強いものがある。しかし、言葉も音もなく、ただ映像だけで自律的な表現たり得るかというと、必ずしもそうとは言い切れない。テキストという層があり、それに重ねられた音楽という層がある。その二つの層の織り重ねを見た上で、それに付け足す第三の層を作り出し、それによって「三つの層の織り重ね」を作り出そうとする。三層の重なり=映画であって、映像=映画ではない。最も遅れてやってくる映像は、それ自体として自律的にあろうとするのではなく、前の二層の重なりに対して「どのような効果を与えうるか」によって構想されるだろう。だからここで映像を作る「監督」とは、全体の最終決定権を握る者ではなく、最後にやってきて既にあるものに対して何かを付け足す者でしかない。既にあるものは動かせない。

⚫︎既に予め与えられた動かせないものがあり、そこに遅れて最後にやってくる。そのような立場で何ができるのか、そのような立場において、どのようにすれば「前提条件」に対しるいくばくかの「自由」が確保できるのか。最後にやってきたのに、あたかも最初からそこにいて作品の原初から立ち会っていたかのように振る舞えるのか(時間の逆行させるかのような逆転の可能性)。この作品における七里形の戦い、あるいは主題、関心は、そこにこそあるのではないか。

⚫︎たとえば「馬」。テキストのレベルで「馬」は、自分が自分ではなくなったと気づいた男が「この馬がこそ自分だ」と自分の外に「わたしの座」を発見するという、飴屋法水の声が語る台詞くらいしか出てこない。あるいは、音のレベルでは、馬の鼻息とも取れる音が何度か聞かれたとは思う。

(追記。この指摘は間違っていた。テキストのレベルでも、「透明な馬→トーマ(「トーマの心臓」)」という極めて重要な主題の連鎖があったのを忘れていた。テキストのレベルで先取り的に、馬の唐突な出現があった。)

だが、このわずかな「馬」の徴候が映像のレベルでは強く押し広げられる。出来事が一周して前半が閉じられたあと、音と沈黙が交差するワンゲル部の場面を挟んで、唐突なように海と馬のイメージが登場する(馬は前半にも先触れ的にチラッとは出てくるが)。雪の中の馬と海の映像の重ねあわせは後半で繰り返されるかなり印象的なイメージのモンタージュなのだが、この強いイメージ(と、イメージ間の結びつき)を根拠づけるものはテキストのレベルでも音楽のレベルにも希薄で、しかしその僅かな兆候を押し広げることで、この映画の後半の印象を決定づけるイメージにまで発展させる。前半にあった、工藤美岬による「母を見つめる眼差し」の強さと拮抗するような、(海の映像と重ねられた)こちらを見るかのような「馬の眼差し」のイメージは忘れ難い。あたかも、「馬」のイメージがこの映画の後半を決定づけるものとして予めあったかのようだ。

⚫︎また、(妙な体操も含んでの)ワンゲル部のイメージも、テキストや音声のレベルからでは予想できない、かなり突飛な飛躍的連想によって成立している。そして、この奇妙なワンゲル部のイメージによって、テキストや音声のレベルではそれほど強くは感じられない、ワンゲル部=劇団という意味の重ね合わせが生まれているのだと言えると思う。

⚫︎母が父について「この人をわたしの子供の父親にする。出会った時にそう決めた。そしてあなたが生まれた。」と娘に語る言葉の後に、海岸に打ち寄せる波の逆回転(時間の逆行)のイメージが示される。この母の言葉だけを取り出せば、日本語としてそれほど奇異ということはない。しかし、その直後に時間が逆行する映像が示されることで、この言葉が、「この人をわたしの娘の父親にする。出会った時にそう決めた。そしてあなたが生まれた。」とでもいうような、あたかも「あなた(娘)」が生まれるという事実が既に前提として決定されていて、その先取りされた未来に至る任意の通路の一つとして「この人(父)」がたまたま選ばれたかのような、奇妙な時間の捩れを感じる。この奇妙な時間の捩れは、この作品全体からも感じられるように思う。