2023/10/12

⚫︎『映画としての音楽』(七里圭)をU-NEXTで。今まで、七里圭による「サロメ」のシリーズをどう受け取っていいのかよく分からなかった。なんというか、うまく観ることができない、自分の見方が何かズレていて、触れ方が分からず戸惑う、という感じ。しかし、連続講座「面とはどんなアトリエか?」を何回か聴講し、最近の、上映と上演を絡めた作品の構造や、その際の「紗幕」の重要性について知ることで、これは「実の透明性」として考えればいいのではないかと気づき(紗幕はまさにリテラルに透明、というか半透明だ)、そして、それによってすんなり腑に落ちる感じで観られた。ぼく自身は「虚の透明性」の方に大きく偏っているから、そのせいで今までうまく捉えられなかったのではないか。

これは、元の概念を恣意的に拡大解釈した上に直感的に用いて(つまり、大して深く考えたわけでもなく)いうのだが、たとえば高橋洋が「虚の透明性」ならば、七里圭は「実の透明性」だ、と言えるのではないか。

コーリン・ロウの論文では、「虚の透明性」こそが高度にモダニズム的な表現で、それに比べて「実の透明性」はやや安易だというニュアンスがあるのだが、七里圭を観る(聴く)ことで、コーリン・ロウが想定できなかった、複雑に構築される高度な「実の透明性」の別の可能性について考えることができるのでは?、とか。

高橋洋という名を挙げたが、実は前衛的な映画では、フレーミングにしてもモンタージュにしても、基本的に多くの場合が「虚の透明性」に偏っているように思われる。そうではなく「実の透明性」を作品の構築原理にしているというところが七里圭の特異性だと考えたらどうか、と。

⚫︎ぼくは「サロメ」についてはあらすじ程度しか知らないのだが、この映画で、他とはやや異質に感じられる、飴屋法水の声によって語られる言葉も「サロメ」からの引用なのだろうか。映画の中程でその声が、国という閉鎖的なものに処罰されて頭の手術をされたせいでか、自分が自分ではないと気づいた、と言い、続いて、食べたい、眠りたい、走りたい、くたびれた、休みたいの繰り返しで、考えることは不要だという気がしている、と言った後、唐突に、「わたしはわたしを見つけた、この馬が自分だと」と言う。「この」といって指示される、自分の外側にあるはずの「馬」こそが「自分」であるという宣言に、ふいをつかれたように愕然とした。この言葉はおそらく、この後の「サロメの娘」のシリーズでも反復されていたと思うのだが、それらを観た時はなんとなく聞き流してしまい、この言葉の一連の流れのとんでもなさに気づけなかった。

「この馬が自分である」。これはもちろん、国家に洗脳されて馬のようなものに成り下がってしまったということの比喩表現と捉えることもできるが、そうではなく、「このわたし」という座が、今、目の前にいて息づいている「この馬」という場にこそあるのだ、という、この乖離を、たった今、わたしが発見してしまった(そうとしか思えない真実としてわたしの元に降りてきた)、と字義通りに取ることで、(映像としては示されない)「(わたしである)馬」のイメージが、ぐんっと突出してくる。それが、映像としてではなく、ここでは「言葉(声)」として与えられる。そしてそれ(=わたし)が、牛でもなく、狼でもなく、馬であることの生々しさ。言葉として与えられる馬こそが「それ=わたし」である。

(確かに「馬」は映画史的に特別な被写体であるが、それはまた別の話だろう。むしろ小島信夫が想起された。)

この作品に続く「サロメの娘」シリーズでは、流れを断ち切るように唐突に「馬」のイメージ(映像)が現れて、これは一体どこからきているか、他の細部たちとどのような関係にあるのだろうか、と、うまく捉えられず戸惑ったのだが、あの「馬」はここからきているのか、と。

⚫︎この言葉が語られた後、水平線への日の入りの映像と、その逆回転映像が示され、サロメの言葉が何重にも重ね合わせられる印象に強く残る場面につづくのだけど、ここにある「時間の逆流」の感覚、というか、時間の順行と逆行とが共存する感覚は、後の「サロメの娘」のシリーズにも引き継がれるように思う。

⚫︎慎ましいが故に強く印象づけられる、生首のイメージの提示の仕方に痺れた。