●『データの見えざる手』(矢野和男)という本の、第一章だけ読んだのだけど、これは恐ろしい本だ。この本のイントロダクションには、「科学の進歩のきっかけの多くは、新たな計測データの取得から」というようなことが書かれているのだが、本文を読むと、この言葉が恐怖の感情と共に迫ってくる。先を読むのが怖い。
●人間には、例えば、同じ計算のステップを延々十万回も繰り返す、ということを(「実験」として)行うのはとても困難だ。さらに、もし同じステップを十万回繰り返したとしたらその結果どうなるのか、ということを想像することも難しい。人間が考える因果関係や論理的展開は、そういう形での思考に対して無力だ。しかしこの世界は、実はそのような、無数の単調な繰り返しのなかで少しずつ「このようなもの」になってきたのだとしたら……。
でも、コンピュータによるシミュレーションは、いとも簡単にそれをやってのけ、そして驚くべき結果を出す。この本には次のようなシミュレーションが説明されている。
30×30の合計900マスのマス目に、ランダムに72000個の玉を配置する。この時、一つのマスに平均80個の玉がほぼ均等に配置される。これはいわば正規分布の配置だ。この状態で、ランダムに二つのマスを選んで、一方からもう一方へと玉を一つだけ移動させる、という行為を行う。これを十万回繰り返したらどうなるのか。この問いに多くの人(理系の専門家)は、分布はランダムなまま変わらないだろうと予想した。しかし実際にやってみると、玉の配置はまだら状になり、分布に大きな偏りが出来た、と。玉を多く所有するマスと少なく所有するマスに差が出て、多く所有する上位三割のマスが、全体の玉の七割を所有すようになった、と。いわゆる「べき乗則」にのっとった分布(この本ではU分布と呼ばれる、UはユニバーサルのU)になるというのだ。何の重みづけもなされず、まったく平等なな条件でランダムに行われるのだとしても、「やりとり(交換)」が行われるだけで、そこに自ずと偏りが生まれる。
複雑ネットワーク理論の本を読むと、自然界に存在するもののほとんどが、べき乗則にのっとった度数分布をとる書かれていて、例えば、お金持ちと貧乏人の数の分布から、人がもつ性交渉の相手の人数の分布、ビンが割れた時の欠片の大きさの分布、銀河のなかの質量の分布まで、決してランダムな分布をみせることはないというのだが、その「法則」が、こんなに単純なシミュレーションでもはっきりと表れてしまう。
このような結果を、コンピュータの助けなしに、「人間の頭」だけから得ることはほぼ不可能だと言えるのではないか。
●なぜ、このようなシミュレーションが試みられたのか。
12人の被験者の左腕にウェアラブルセンサーをとりつけ、1秒間に20回という頻度で左腕の動きを計測し記録する。それを4週間つづけた。すると例えば、一分間の平均で、起きている時80回、歩いている時240回、PCをみている時50回、左腕を動かしている、という風に、ある行為をする時の左腕の動きの頻度が分かる。
そのデータを総合してみてみると、驚くべきことに、それぞれ生活習慣(行う行為の内容)も、左腕を動かす総量も異なっている(左腕を多く動かす人も、すこししか動かさない人もいる)12人なのに、すべての人の、一日に左腕を動かす頻度分布のグラフがまったく同じ形を示したという。そしてそれが、片対数グラフで右肩下がりの直線になる「U分布」の形だと。
つまり、1分間に左腕を60回動かす時間が一日のうちの二分の一あるとすると、1分間に120回動かす時間は1日の四分の一となり、1分に180回動かす時間は1日の八分の一になり……、という風に、その配分がきっちりと「予め決まっている」ということが分かったというのだ。つまり、一日の身体運動の分布は、動きの総数という「一つの変数」によって決まってしまうということだ。これは、人間の意思や努力とは関係なく「決まっている」ことが分かった、と。
例えば、原稿を書く時は一分間に60回、プレゼンを行う時には一分間に150回左腕を動かすのだとすると、一日のスケジュールを、プレゼン五時間、原稿三時間として組むことは(U分布は右肩下がりなので)、「法則」によって許されないことになる。プレゼンを短くするか、原稿を長くしなければならない。そうしないと必ず無理が出る、と。
●上のシミュレーションで、900のマス目というのは一日のおおよその活動時間15時間=900分で、72000個の玉は動きの総数をあらわしているモデルということになる。900マス(分)に配分される72000個(回)の玉(動き)は、「やりとり」がない場合は平均的な正規分布となるが、「やりとり」が行われる場合、必然的にU分布になるのだ、というシミュレーションだった。
つまり、(無意識のうちに)一日七万回の限られた資源(腕=身体の動き)を配分(やりとり)していることになる(無意識のランダムな配分で自動的にU分布になる、というか、なるしかない、そう決まっている)。ここで、腕の動きの回数の分布は、原子のエネルギー分布と同じ式であらわされるのだ、と。つまり、人間の活動の熱力学的限界について書かれている、と。
●とはいえ、ここで完全に「自由」が封じられているというわけでもない。
ポルツマンによる「エントロピー」の数学的な定義とは、マクロな性質(温度や圧力)を変えない範囲で、ミクロな状態(原子)が取り得る組み合わせの数――その総数――の対数であり、つまり、エントロピーが高いということは、ミクロな状態においての選択肢が多いということを意味するのだ、と書かれている。高いエントロピーの状態とは、ミクロな次元においてより大胆な配分(偏り)が許される状態である。そして、「U分布」の方が「正規分布」よりエントロピーが高いのだ、と。
でも、そういわれてもあまり自由な感じはしないのだけど……。
●こんなことまで分かってしまった世界において、人間として、意思や感情、快楽や苦痛、そして死への恐怖をもって生きるというのは、一体どういうことなのだろうかと思う。