2024/03/22

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、第九話。円井わんの仲里依紗に対する感情は、嫉妬と羨望からくる憎悪の状態にあって、つまり、円井から仲へのハラスメントの告発は、憎悪する相手を陥れる策略であろう。たとえば、昭和の時代、職場におけるハラスメントが社会的にほぼ問題になっていない時に、円井による仲への感情と同様の嫉妬と羨望からくる憎悪があった場合、円井は、ハラスメントへの告発とは別の形で(その時代、その環境に合った)、何かしらのダメージを相手に与えるような策略を実行しただろう。ここにあるのはあくまで、円井と仲との間に生じた人間関係の問題(こじれ)であり、感情の問題だと言える。ハラスメントが、社会的な権力関係の中で、それを利用して相手の人権を踏み躙るような行為をすることだとすれば、円井の仲への感情(仲に傷つけられたと感じること)は、そこには含まれないはずだ。

阿部サダヲは、円井に対して、仲里依紗よりもずっと酷いことを言っているが、円井にとって阿部など眼中になく(関心がなく)、故に阿部の言葉に傷つくことはなく、せいぜい仲を追い詰めるための格好の素材くらいの意味しかないだろう。円井にとって仲の言葉は、直属の上司からの言葉ではなく、嫉妬と羨望からくる憎悪の対象にからの言葉となる。それによって円井に生じた感情(傷つけられた)について、「上司」としての仲が責任を取らされるのは理不尽なことだ。

(仲が、「人として」配慮が足りなかったと反省することはあるかもしれないが。しかしそれは、個と個の間のコミュニケーションの問題であって権力関係の問題ではない。)

(このことの背景には、この社会の中にマタハラという問題が存在してしまうという事実がある。しかし、「マタハラが存在してしまう」ということのツケを個人としての仲里依紗が負わされるのは理不尽だろう。だが、人は往々にして、遠くにいる敵対的強者よりも、近くにいて、同じ問題を共有してさえいる、決して「敵」ではない人物の「小さな配慮不足」の方を、強く恨んでしまいがちだ。)

だからここで問題となるのは、上司と部下との間にある権力関係ではなく、「裁く側」と「裁かれる側」との間にある権力関係だろう。ここで「裁く側」に明らかに大きな問題がある。そもそも、誰に「人を裁く」権利があるのか。必要上、第三者的な立場として裁く側になってしまった場合、そこには「部下に対する上司の責任」よりも重い責任が課されることになる。だが、このテレビ局のハラスメント対策委員会は、その責任を果たしていない。調査が十分でないばかりか「被疑者」に十分な反論の機会を与えることもない。彼らの目的が、フェアなジェッジを行うことではなく、問題を大きくしないこと(危機管理)にあるからだ。この点について、仲は会社組織から明らかなハラスメントを受けているが、それを告発する窓口はない。

(仲に、感情として、円井に対する罪悪感がほんのわずかでもある場合、ここで抵抗することはほぼ不可能だろう。)

(このような「委員会」の様子を見ると、60年代の前衛映画によくあった、革命的勢力による、反革命分子を糾弾する委員会の様を連想させられる。)

もちろん、ハラスメントは大きな問題であるが、では、それにかんして、誰が、どのような権利において裁くのか。人が、直接的に加害を受けているわけではない誰かを(疑問を呈するというレベルではなく)強く非難する時、その人は、その強い非難に見合った根拠を本当に持っているのか。あるいは、非難が言説のレベルで機能する(論争や政治的対立)なら良いとして、実質的に、社会的評価にかんして決定的に「裁いてしまう」ような力を持ってしまうとしたら、どうなのか。とはいえ、誰かが、何がしかの責任を負って「裁かないわけにはいかない」場合は端的に存在し、その場合、その根拠は何重にも検証される必要があるだろう。

(ただ、このような疑問を持ってしまうことがそのまま、「既得権を持つ者の有利」に通じてしまうというどうしようもないジレンマもあり、故に、とりあえず真偽はともかく「弱い側」に立つという暫定的態度は必要だ。しかしそれは暫定的な判断であり、状況により判断は流動的になり、裁きを決定的に色付けることは避けなければならないと思う。)

「委員会」のメンバーは、何も裁きたくて裁いているわけではない。裁く立場であることの全能感に酔っているわけでもなく、正義感や使命感に突き動かされているのでもない。彼らは、同僚である仲里依紗が悪い奴ではないことを知っているし、「そんなつもりはなかった」が言い訳でないことも知っている。ただ、円井わんがこれ以上騒ぎを大きくしないために、「ここは君が我慢してくれ」という話だ(組織としての危機管理)。いわば、ヤクザ映画で、若手が汚れ仕事を請け負わされて、何年かの懲役を済ませて帰ってきたら幹部待遇を約束するから「ここは我慢してくれ」というのと同じ構造だ。

(そもそも、委員会のメンバーの中に、被告発者の親しい仕事仲間が含まれている時点で、この委員会には正当性・第三者性がない。だから、彼らがするのはジャッジではなく「(組織内の)調整・調停」になるしかない。まずここに大きな問題があるのだが。)

委員会のメンバーはその事情を知っている。あるいは、仲と近い位置にいる内部の人は、ここで仲が「汚れ役」を引き受けさせられていることを知っている(だから復職後の彼女を責めることはないだろう)。しかし、すべての人がそれを知るわけではない。事情を知らない第三者には、ただ「パワハラで休職させられている人」という情報だけがもたらされ、それ(だけ)を元に彼女は「裁かれる」。あらゆる事柄には複雑な事情があるが、それを知る人はごくわずかだ。