●中学生の時、YMOとか、あるいは山下達郎など後にシティポップと呼ばれるようになる音楽とかを好きになる直前に(というか、一時期重複していたと思うが)、ほんの一瞬だけ横浜銀蝿にハマったことがある。横浜銀蝿の翔のボーカルは、そのいかつい見た目とうらはらにとても「甘い」ものであり、横浜銀蝿の曲は、そのいかつい見た目とうらはらに強く感傷的なものだ。思春期になったばかりぼくは、この「感傷的」という感情を、おそらくはじめてリアルに経験したのではないかと思う。
(基本的に、不良や保守というのは、甘くてセンチメンタルな人たちなのだと思う。)
たとえば、「横須賀Baby」という曲(「感傷のテンプレ」のような曲だ)から、自分にとっては未知の、しかし強く引っ張られる感情を感じていたのだと思う。この曲を聴くと感じられる「この感情」は何なのだろうかと、戸惑いつつ聴いていたと記憶している。現在のぼくには、その感じを生々しく思い出すことはもう出来ないが、曲を聴くことで、その微かな残響のようなものが立ち上がりはする。
(単純に、当時とても売れていたし、友だちもみんな聴いていたということでもあるのだが、ヒットしていた「ツッパリハイスクールロックンロール」よりも、感傷的な「横須賀Baby」に強く惹かれていた。)
とはいえ、そのようなセンチメンタルな感情よりもより強い、「快楽」や「刺激」を、山下達郎や坂本龍一に感じて、横浜銀蝿から離れていく。
(横浜銀蝿のセンチメントより、坂本龍一のセンチメントの方がより強い、ということでもあるのだが、それを自覚するのはもっとずっと後になってからだ。中学生の時には坂本龍一のセンチメントにはまったく気づいていなかったと思う。)
(山下達郎の「快楽」はとても強く憶えている。『FOR YOU』というアルバムを聴いていたある瞬間に、頭のフタがパカッと開いて、そこから噴水が噴き出したかのような、脳が射精したかのような「快楽」がやってくることが何度かあった。その「快楽」は「感傷」よりも強いものだった。)