2021-06-12

●なんで、芥川賞三島賞も、鴻池留衣を無視しつづけるのだろうか。ここ一年半くらい、直近三作における鴻池留衣の飛躍と充実は驚くべきものだと思う。

「ジャップ・ン・ロール・ヒーロー」が芥川賞の候補作となったが、選考委員からほぼ理解されなかったという(悲しい)過去はあるとしても、その後の三作で、特異な才能をもった曲者が、一作ごとにその曲者的な拗らせ度合いを順調に増していっていることをがっつり示している。「ジャップ・ン・ロール…」以降の充実した三作が一つも---芥川賞にも三島賞にも---候補にすら挙がらないということがあり得るのだろうか。

(たとえ受賞に至らなかったとしても、候補になっては落ち、候補になっては落ちをくり返し、その度に一部のコアな読者が選考委員の無理解を罵る、というような劇くらいは生まれてしかるべきではないかと思う。)

いつも思うのだが、「賞」というのは、候補作のなかから何が選ばれて受賞するのかということよりも、何が候補に選ばれ、何が選ばれなかったか、ということの方がずっと重要だと思う。それによってフレームが確定されてしまう。選考委員の先生方がいかに偉くて慧眼だとしても、候補に挙がっていない作品を掘り出して受賞させることはできないのだから(その意味で、「日本文学会」の方が、選考委員の先生方より圧倒的に偉い---強い権力がある---のだ。)。

候補に選ばれないということは、検討さえされないということだから、「選ばれなかったという選択」が適切なものであったかどうかを検証することが難しい。候補作のなかから何かが選ばれた場合、その選択が適切だったかを検証できる。つまり、候補作すべてを検討し、選評を読み、「選考委員はまったく読めていないではないか」と文句をいうことが出来る。文句を言ったからといって結果は変わらないとしても、少なくともそこに言論が発生する。でも、「候補作選出」の適切さを判断するためには(何かが「選択されなかった」ことの適切さを判断するためには)、文芸誌に掲載される小説を広く読んだ上で「それが選択されなかった」ことの是非を問う必要がある。しかし、そういう人は少ないので、「候補の選択」の適切さを問うことが難しい。というか、そもそも、そのような問いがあるということを意識することが難しい。でも、実はこちらの方が重要だ。

おそらく、それをある程度はオープンにするために「新人小説月評」というものが存在するのだと思う。これを読めば、少なくともどのような小説群が「候補作の候補」であったのかが大雑把には分かる。

今年はあまり読めていないが、少なくとも去年は「新人」の作品のすべてを読んだ上で、鴻池留衣の圧倒的存在を感じた者として、「疑問をもった」という事実は表明する方がいいと思った。あと半年もすると、疑問を持つ権利もなくなると思うので。