●お知らせ。明日、4月10日付け東京新聞の夕刊に、三菱一号館美術館の「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」の美術評が掲載されます。実は、休館前のブリヂストン美術館「ベスト・オブ・ベスト」展について書こうと考えていたのですが、いろいろ回った帰りに、ついでにもう一度観ておこうと思って(2月の末に一度観ているのですが)観たNGA展が改めてすばらしくて、迷った末にこちらに変えてしまいました。
●『ポストメディア人類学に向けて』(ピエール・レヴィ)を読んでいて、そうか『ユリ熊嵐』はソドムとゴモラの話でもあるのか、と気づいた。あくまで、で「も」ある、であって、ソドムとゴモラをもって作品が綺麗に解読できるということではない。『ユリ熊嵐』は、一つ一つの要素は(おそらく意識的に)単純につくられているが、その関係は非常に複雑に組まれている(様々な関係性が重複されている)作品なので。
(「ユリ熊」が「ピンドラ」より分かりやすいという感想をよく見かけるけど、おそらくそれは間違っていると思う。分かりやすいと感じる時、何か重要な細部を見落として単純化してしまっているのだと思う。)
●神は、多くの不義が犯されている町を滅ぼすことを決意し、その旨を族長アブラハムに告げる。アブラハムは言う。もし町に義(ただ)しき者が50人いるとしても、悪人とともに殺してしまうのか、と。神は、義しき者が50人いるのなら町を救済しようと言う。アブラハムは交渉する。では、45人ならば、40人ならば……。そして、義しき者が10人いるならば町は救済されることになる。
二人の天使が町にたどり着く。見かけは通りすがりの異邦人だ。町の入り口にいたロトは歓待の掟に従い、彼らを家に招き入れ、もてなす。だが、町の者たちはロトの家を取り囲み、異邦人を「もてあそぶ」要求をする。ロトは客を引き渡すことを拒み、代わりに娘を提供さえしようとする。しかし群衆は聞く耳をもたない。この試練によって、町に「義しき者」はロト一人しかいないことが判明し、町は滅ぼされることになる。
天使はロトと家族が逃げられるようにする。しかし、その時の約束を破って焼き尽くされる町を振り返ったロトの妻は、そこで塩の像に変えられてしまう。
●これに対し、レヴィは次のように書いている。これはそのまま「ユリ熊」という作品のある一側面(あくまで一側面だが)を正確に照らしていると思う。読みながら「ユリ熊」のいくつかの場面を思い出さずにはいられなかった。第一章「義(ただ)しき者たち」より。
《実際、悪は至る所にあるし、いつだって目につく。それに対して善(義しき者たちの活動)は、厳密な推論の末、その場での入念な調査(天使たちはソドムを訪れるのだ)あるいはその間接的な結果によってしか明るみに出ない。(…)
悪はメディアにのせられるが、義しき者たちは隠れており、目立たず、匿名的で、知られていない。しかしそれでは、正しい者たちは何によってそれと分かるのだろうか。この聖書のテクストは、大法廷や最後の審判や、何らかの究極の天秤の上で魂の計量を表現しているのだろうか。いや、そうではなく、それが描くのは、世界中どこでも行き、ある夜、道の土埃をかぶって、町の入り口にあらわれる移民たちである。(…)超越的な《正義》も、選別を許すような全知もありはしない。遊牧民(ノマド)たちに倣わねばならないのである。彼らは世界を支えている見えない者たちを迎えに行く。目立たずに社会的な絆を織り上げている義しき者たちを、彼らは見つけ出すのだ。》
《ソドムの罪とは何だろうか。歓待の拒絶である。ソドムの人々は異邦人をもてなすどころか、彼らをもてあそぼうとした。ところで歓待とは、何よりも社会的な絆の作法を、相互性という形態に基づいて理解された一つの社会的な絆を表している。主人(hote 客)とは、迎える人でもあり迎えられる人でもある。そして、誰でも次には、異邦人となりうるのだ。歓待とは、旅をする可能性、他者に出会う可能性を普遍的に維持するものである。歓待によって、切り離され、異なっており、風変わりな者は、ある共同体のなかに、迎え入れられ、組み込まれ、含まれるようになる。歓待とは、個人を一つの集団に縫い合わせる行為である。これは排除という行為とは何から何まで相反する。(…)ただし、ノマドという集団を組み立てる事につとめているということから、義しき者が何はともあれ統一性、一様性、全員一致を育むのだと結論づけてはならない。反対に、ロトは少数であることの危険を受け入れる。彼は異邦人たちをみなに反対してたった一人で守るのだから、あたう限りもっとも少数派である危険を引き受けるのである。こうして彼自身が異邦人であるという立場に身を置く。もっとも中にいるものはもっとも排除される者になりうる。異邦人たちを組み込むことで、今度は自分が排除され、他者たちを横断させ、自分自身も境界を越えることで、義しき者は至高の通過させる者(パッサー)となるのだ。》
●そしてこの本は、「ユリ熊」のその後、あるいはその先まで示しているように思われる。
《なぜアブラハムは交渉(九人の正しい者、七人、三人……)をさらに続けようとしないのだろうか。町が救われるためには、なぜ少なくとも十人の義しき者たちが必要なのか。なぜロトはソドムを救うに至らないのか。集団を維持するためには集合的な力が必要だからである。三人ならば周知の三人であろうし、いずれ有名となるだろう。そのうち一人は遅かれ早かれ、最終的には他の二人から離れるだろう。(…)義しき者には、統治する使命もいけにえの役目を果たす使命もない。町は集団と集団の間の関係によってのみ維持される。理想的には、町は自分自身への関係によって、皆によって皆が包摂される労働によって、育まれる。ところで、十人というのは本当の意味での集団を形成しはじめる。十人は匿名の始まりである。少なくとも十人の義しき者が必要であるのは、彼らが義しき者たちの社会という試練を乗り越えなければならなかったからである。義しき者たちは、ともに生き、支え合い、助け合い、それぞれの行為を互いに強め、立て直し、価値評価することができなければならない。》
《神とアブラハムとの間の取引は、どんなときも、どんな町でも行われていると考えねばならない。人間の世界が今日まで存続してきたのだとすれば、それはつねに十分な数の義しき者たちがいたからである。歓迎、援助、開放、心遣い、承認、構築といった実践は、結局のところ、排除、無関心、無視、恨み(ルサンチマン)、破壊……といった実践よりも多いし、強いからである。》
●あるいは、イントロダクションの部分には次のように書かれている。これってクマリア様のことだとしか思えない。
《いたる所に分配された一つの知性。これが出発点となる私たちの公理である。誰もすべてを知っているわけではなく、誰もが何かを知っており、智慧の全体は人類の中にある。智慧とは、決して超越的認識の貯蔵庫などではなく、人々が知っている事柄以外の何ものでもない。精神の光は、そんなところに知性などないと人が信じさせようと試みるまさにその場所ですら、輝いているのである。---《落ちこぼれ》《指示待ち人間》《後進国》などのうちに。無知という包括的な判断は、そうした判断を下す者に跳ね返ってくる。もしあなたが誰かを無知と見なす過ちにとらわれるならば、どんな文脈でその人の知っていることが黄金になるか探求してみていただきたい。》