山本現代に「Malformed Objects」を観に行った。
http://www.yamamotogendai.org/japanese/exhibitions
初日に行ったのは、なによりキュレーターの上妻世海によるステイトメントが(直接的にこの展覧会のステイトメントではないようだけど、展示がはじまる直前に発表されたのだから関係は深いはず)すごくクールで驚いたから。
「消費から参加へ、そして制作へ」(エクリ)
http://ekrits.jp/2017/01/2243/
《僕の考える現代社会の特徴は「情報空間」と「物理空間」の境目が曖昧になったというよりも、むしろ「情報空間」と「物理空間」が入れ子状にフィードバックループを形成しながら相互生成することで、「現実空間」を仮設的に瞬間的に構築している点にある。僕たちは事後的に「情報空間」と「物理空間」を区別するが、実際は持続する一つの「現実空間」を経験している。》
《僕たちは「現実空間」を、ユークリッド幾何学で記述されるような客観的かつ数量的なものとは考えていないし、主体の心理的な体験空間であるとも考えていない。「現実空間」は「情報空間」の部分的かつ瞬間的な現勢化であり、現勢化するや否や未だ現実化していない問題提起的な潜在的「情報空間」として再度問い返される。「物理空間」は即座に「情報空間」の素材として可変的かつ流動的な課題へと変化する。そしてまた、僕たちは「情報空間」を別の仕方で「物理空間」へ転用しようとする。そのループの中で、僕たちは仮設的な「現実空間」を体験している。》
《上記の構造上の変化を、人々が各々に都合の良い虚構を生きるようになったとして非難することは容易であるし、「ポスト真実」の時代と名付けることもできるだろう。しかし「複数の虚構と実在性」という図式は、そもそも「近代社会システム」が格差を隠蔽することで共有されている一つの虚構に過ぎないことを浮き彫りにもしている。近代社会システムは、「自由」という理念が労働力を売り渡すという自由すら内包することで、資本家/労働者という主従関係を隠蔽し、利己的な主体が功利主義的に利害計算することで、社会が調和するという神話によって保たれていたのだから。》
●このような状況認識の上で、「制作」というものが次のように考えられている。
《僕たちは、この不可逆な時代の変化を「透明なコミュニケーションによる共同主観的な共同体の再建」という課題で捉えるのではなく、素朴に「差異を肯定」するのでもなく、各々の虚構を継続可能な仕方で制作しつづけることにしよう。現代の環境を考慮した上で、別の仕方で規範性を、継続可能性を、安定性を制作するという課題に挑戦しよう。他者が用意した虚構を消費することでも、そこに参加することでもなく、各々が制作することにしよう。そのために必要な武器は揃っている。》
《もちろん「観察から制作へ」という枠組みで世界を捉えていたのは、今日生きる僕たちだけではない。いつの時代であっても科学者にとっての「物理空間」は、リテラルなモノが敷き詰められた場としてだけでなく、様々な複合的な謎に満ち満ちた場として立ち現れているし、工学者にとっての新たな技術は、便利で快適な新しい「商品」としてだけでなく、次なる課題や目的を生み出す「プロトタイプ」として見えるだろう。また美術家にとっての他者の傑作は、ただ美しいだけでなく、次なる挑戦を突きつけるものとして現前している。つまり、彼らにとって現前しているものは〈今ここ〉にあるだけでなく、謎やプロトタイプや課題として即座に過去と未来へ折り返されている。》
《人類は初めから今の形で自動車を知っていたわけではない。そのようなイデアは存在しなかった。幾何学、物理学、工学、化学、車輪、蒸気機関の発明が、それぞれの潜在的な課題を湛え、それらが出会い、結合することで、蒸気自動車を生み出したのである。さらに、蒸気自動車のもつ魅惑がガソリンエンジンを、その熱を冷ますための冷却技術を、高度な計算が可能なコンピュータや計測装置がより空気抵抗の少ないクールなフォルムを、そしてそれらのモノとモノの結合が、現在の自動車を生み出した。そして、今も自動車は、あるいは自動車を構成する各々のモノたちは、制作者たちを魅惑し、課題を湛え、様々な周辺的な技術と結合しながら、異なる仕方で変容しているに違いないのだ。》
《過去の枠組みで世界を額面通りに認識し、今にも溢れ出しそうな余剰を抑圧しようとする人々はまだ存在するし、これからも存在しつづけるだろう。僕たちは彼らとも協働していけばいいのであって、彼らを敵だと思う必要はない。僕たちは新しく始まったばかりのこの世界で、これからの芸術について思考し、対話し、実践していこうと思う。世界を止めるのではなく動かそう。》
●ここで特に、《各々の虚構を継続可能な仕方で制作しつづけることにしよう》と、《別の仕方で規範性を、継続可能性を、安定性を制作するという課題に挑戦しよう》という二つのことが重要であるように思われる。一人一人が別々の「現実」を生きていることを認めた上で、可能な様々な共同性の制作が試されなければならない。あらかじめ「自動車」というイデアが存在しなかったのと同様に、そのような共同性の理念も事前には存在しない。何と何と何とが組み合わせられた時に、どんな効果が生まれる、あるいはどんな問題が生まれるのかは事前には分からないし、テクノロジーや環境変化によって世界の条件にどのような変化が起こるのかも事前には分からない。だから、敵も味方も(事前には)存在しない。
そして、何か新しいものが生まれた時、それが真に新しいものであるなら、それが本当に新しいか新しくないかを、リアルタイムで正確に知ることは出来ない(新しさは事後的にしか分からない)。本当に新しいものは、未だ誰もその新しいものの「新しさ」を知らないのだから。その「新しさ」は、《過去の枠組みで世界を額面通りに認識》する人によって、既に過去にあった何かとしてカテゴライズされるだろう。だからその時、直観的に「これは新しいのだ」と言う人がいなければならない。その直観は、当たるかもしれないし外れるかもしれない。そのリスクを背負ってでも「これは新しいのだ」と言う必要がある。そうしなければ、せっかく生まれた新しさは、気付かれないまま、その可能性を充分に試されるより前に消えて(なかったことにされて)しまうかもしれないから。制作するとは、そのような新しさを出現させるべく努力することだろう。そして、そこで間違うリスクを背負って「これは新しいのだ」と言うのがキュレーターの役割だと、おそらく上妻世海は思っているのだろう。
(そして、このテキストを読んでぼくは、このようなテキストを書く人の「直観」ならば、信じる方に賭けることに値するのではないか、と感じた、ということ。)
●この展覧会には「指示書」があるのだけど、初日だったので行ったときにはまだ出来てなくて、ぼくが指示書を手に入れたのは盛況だったオープニングの最中だったので、指示書の通りの行動は出来ていないので、この展覧会に関してぼくはまだ「制作者」ではなく「観察者」であるにすぎません(「制作者」になるためにもう一度行きます)。
●その限りでの感想なのだが、ぼくには、大和田俊、池田剛介、永田康祐、篠崎裕美子の作品に関心を惹かれた。特に、篠崎裕美子の陶器(多分)の作品(「不滅ポルノ」)は、上妻世海のテキストの(たんなる図示ではなく)物的証拠のようなものとしてあるように思われた。
●オープニングパーティの盛況ぶりとリア充感がすごかった。「上妻世海来てる」感。おそらく人として似たところがあるのだと思われる(アグレッシブというか、喧嘩っ早いというか)上妻さんと清水高志さんが二十歳以上の年齢差を越えて意気投合している様は、まさに胸が熱くなる展開、という感じ。
(以前、中沢新一読書会でご一緒していた石倉敏明さんに、まさか「ここで」お会いするとは思わなかった。清水さんのツイッター友達が大阪や名古屋から日帰りで来ていたり、そういう不思議なこともいろいろあった。)