●日本特殊論みたいなのはあまり気持ちよくない(受け入れたくない)のだけど、いろいろな人の話を聞くと、どうも日本は特殊であるらしい。この前、国際交流基金のレクチャーでゲームAIの研究をしている三宅陽一郎さんが、日本で売れるゲームとそれ以外で売れるゲームはかなり違うという話をしていて、気になったので、欧米と東アジアで違うとかではなく、日本と日本以外が違うんですかと質問したら、そうだ、という答えだった。例えば中国や韓国を考えても、国柄や土地柄で多少違いはあるとしても、基本的にアメリカで売れるゲームが、中国でも韓国でも売れる、と。しかし日本では、欧米で大ヒットしているようなゲームでもほとんど話題ならなかったりする、と。かつては日本製のゲームが世界中で売れていた時代もあったけど、ゲームの精度が上がってくることで「細かな違い」が表面化して、売れなくなった、と。クオリティが上がって差異が明確化した、と。
例えば日本のユーザーは、華奢な美少女が細い腕で重たい武器を自由に操るというようなことをファンタジーとして楽しむのだけど、日本以外のユーザーは、それを「リアルではない」と感じ、そこでゲームへの没入が途切れてしまうらしい(でも、「魔法がかかっている」というような説明があれば納得はする、と)。それで、今、日本以外で流行っているゲームは、ひたすらリアルに作り込まれた街のなかで、人を殺しまくるとか、自由に犯罪をすることができるとか、そういうものであるという。いや、それはもうゲームに「求めているもの」が根本的に違うというしかない。だからもう日本のゲーム会社はあきらめて、海外向けのゲームは海外に支社を置いて現地のスタッフでつくっている、と。
(リアリティを感じる軸の位置が、かなり、というか、根本的に違う感じがする。)
映画ということで考えても、海外で評価の高い日本の作品は作家性の高いもので、つまりそれはアート(あるいはマニア向け)であってエンターテイメントではない。アートとして、多様なものの一つとして「認め」はしても、エンターテイメントのレベルで(無意識まで含めて)「受け入れる」わけではない。インテリを幻惑することはできても、大衆に浸透しない。日本のエンターテイメントが「海外で通用しない」のは、クオリティの問題ではなく、無意識レベルで「求めているもの」、あるいは「重視しているもの」が違うということではないか。
日本の特殊性が上手く作用しているほぼ唯一の例が、アニメとマンガであろう。日本のアニメやマンガのようなものは、(とりあえず今のところは)日本でしか生産できず(アニメのスタッフは既に多国籍的ではあるが)、それが世界的にある程度は売れる(受け入れられている)。一つ考えられるのは、アニメやマンガは入口が「子供」であるという点だ。子供の時に日本製のアニメやマンガを観て育った人は、大人になってもアニメやマンガを観る。ゲームでも、任天堂のゲームはまだ海外でも売れるそうだ。戦後のアメリカが、給食をパン食にすることで日本の子供に小麦の味を憶えさせ、アメリカ産の小麦をずっと日本に売れるようにした、ということが、確か阿部和重の小説に書かれていた。
だから、日本の特殊性はあるとしても、それが必ずしも閉鎖的なものでも、固定的なものでもないとは考えられる。でもまあそういう話は、グローバル化したミーム競争(ミームの陣取り合戦)みたいになってしまうなあ、と。
日本製のゲームは受け入れられなくても、アニメなら受け入れられるという人はいるわけで、人の精神の構造(というか、リアリティの重みづけの分布)は単層的ではなく多層的だと考えられるので、個々の人についてはまた別の様相があり、このことはもっと細かく丁寧に考えなければいけないのだけど。でも、個を育むのは「場」だったりもする。
(ぼくは、日本の特殊性を素晴らしいと思っているわけでも、恥ずかしいと思っているわけでもなく、それを自分のアイデンティティの根拠とするつもりも敵とするつもりもなく、面白いところも困ったところも嫌悪するところもあると思っているが、自分がそのような場に生まれ、そのような場で育ってしまったことは否定しようがないもの――来歴の固有性――としてあり、難儀なことだなあとは思う。)
●日本の特殊性に対して、文脈や理屈をつけること(悪い場所とかスーパーフラットとか)には基本的に興味はないのだけど、売れる/売れないというのは、一つの観測的な事実であって、つまり、日本の特殊性を「主張する」ことと、どうも日本には特殊性があるようだということが「観測によって認められる」ということは違う。
(結果や目的が最初にあって、そこに向けて人を説得するためにロジックを組み立てるということと、いくつかの事実が知られることによって、ある結果がそこから必然的に導かれるということは全然違うことで、ぼくは基本的に前者にはあまり興味がないのだけど、それをテキストとして加工してしまうと、その違いが分かりにくくなる。)
だから、同じ作品であっても、アートのレベルとエンターテイメントのレベルとでは、分けて考え、異なるアプローチをすることが必要だろうと思う。アートのレベルは、意識的、個別的、実験的(仮想的)、思索的なものとして考え、エンターテイメントのレベルは、無意識的、集団的、実証的、現実的なものとして考える。エンターテイメントのレベルでは、売れる/売れないということは実証的な事柄として重要であり、あるコンテンツが「売れる」ということは、その社会(集団性・共同性)の持つリアリティの何かしらに触れているということであり、そのことは作品のクオリティや思索的な高度さなどとは別に評価され、検討される必要がある。
(逆に言えば、アートのレベルでは、売れる/売れないや社会的リアリティから切り離して、クオリティや思索的な高度さによって評価され、検討される必要がある。)
両者をいったん切り離して、それぞれに対して違うアプローチで分析を行った後、それを両方併せ、行き来させてみる必要があると思う。両者は別の位相にあるとはいえ、通底しているはずであり、一方だけで他方のことが分からないと、その一方も本当には分からないと思われる。