●『ブラックスワン』をDVDで観た。これは何なのだろうか。主題や物語の水準では、ベタで凡庸で何の工夫もひねりもない話が、抑揚も深みも陰影もなくただひたすら最後まで一本調子でつづいてゆく。そのひたすら単調な流れを、ともかく最後まで観ることに耐えさせているのは、演出上の工夫や俳優の魅力や人間たちのドラマの丁寧な描写などではなく、「眼」と「耳」に与えられつづける刺激の強さと情報量なのだ。(物語や演出という水準では)一本調子だけど、とにかく刺激の強さと情報の精度で強引にぐいぐい押してくる力がある。
とはいえ、ただ、視覚的、聴覚的な刺激をぐいぐい追及するのならば、もっと能天気な、スカッとするような、面白おかしい話を採用すればよさそうなのに、ここにあるのは、母の(おそらく過去に起因する)娘への過剰な抑圧的支配、その抑圧による娘の人格の分裂、そして、抑圧的磁力から脱しようとする娘の努力や苦しみの過程、さらに、抑圧からの脱出が、娘に社会的成功や男性の獲得をもたらすものであるのと同時に、その人格そのものを崩壊させてしまうかもしれない危険な行為-過程でもあること、といった、ベタすぎるほどベタベタな、古典的主題(問題)なのだ。
古典的な主題を支えていた様々な配慮(演出や演技や描写の深みや陰影やひろがり、説話上の様々な工夫や技法など)は、ほとんど無視されているにも関わらず、その主題そのものは生々しく生き残っている。そしてその生き残ってしまっている主題の重さをなんとか支えるために、過剰な視覚的、聴覚的刺激が動員されている。この作品がたんなる駄作ではないのだとしたら、この作品にある切迫したリアリティとは、主題の重さを説話(物語)的な技法が支えられなくなっているという事態ではないだろうか。抑圧は今もなお存在し、そこからの脱出は求められているのに、それを可能にしてくれる適切な物語(その語り方、実践の技法)が機能しない。古典的な主題(問題)はまだ生きているのに、その処方箋の方が古びてしまった、というか。
この映画で主人公に、母親からの切断を後押しし、同時に、もともとあった分裂的な資質を増幅させ、破壊的なまでに顕在化させてしまうきっかけとなるのは、ケミカルなドラッグであった。それは、厳しくも魅力的な年上の男性演出家でも、退廃の匂いがする同性の友人でも、その友人によってもたらされる遊び人風のイケメンでもなく(これらの存在は「物語」の範疇にある)、決定的に作用するのはドラッグなのだ。抑圧という物語的な縛りに対して、年上の男性、蠱惑的な友人、危険な遊び人という物語的な解毒剤が有効に機能せず、身体(というか神経系)に直接作用するドラッグの方が有効であった。あるいは、物語が機能する「きっかけ」としてそれが必須であった(ドラッグの助けによってようやく物語が機能し出す)。ここには確かに、精神分析(物語)とテクノロジー(ケミカルなドラッグ)の奇妙なハイブリッドがあるのだが、それは、「ドラッグがあれば物語が機能しなくても大丈夫」というような前向きのもの(何かの可能性を示すもの)ではなく、「物語が機能しないのでドラッグに頼るしかない」といった切迫したものであろう。
実際、この映画が示す「母親からの切断」は、あまりに性急で、拍動的で、制御不能なものであり、主人公に成功と破滅とを同時にもたらしてしまう。つまり、ドラッグは適切な媒介とは言えない(とはいえ、ドラッグがなければいずれ「母」に潰されたであろうと思うので、そこに切迫したリアルさがある)。それはまた、この映画における過剰な視覚的、聴覚的刺激の動員もまた、主題を支えるものとして充分なものにまでは至っていないということでもあろう。この映画には確かに一定の切迫したリアリティはあるとしても、その表現はあまりに極端であり、振幅が激し過ぎるし(白か黒か的な振幅の激しさに頼りすぎだし)、余裕が無さすぎる(俳優の演技も痙攣的だ)。つまり、単調であることを逃れられていない。精神分析とテクノロジーのハイブリッドとして、何かしらの有効な形式を見出すところまでは行けていないと思う。
●あと、この映画の「鏡」の不気味さがちょっと面白かった。ダンスのスタジオには大きな鏡がある。だから通常、カメラはフレーム内に(鏡に映った)カメラ自身が入ってしまうのを避けなければならない。それによってカメラの位置は制限されるだろう。しかしこの映画では、明らかにカメラが写り込むはずの位置にカメラがある時でも、鏡にカメラが映らない(おそらくCGによって処理されているのだろう)。このことが、無意識のうちに、この「鏡」への信頼を失墜させる。この鏡は嘘吐きだ、という風に。
それはつまり、わたしが鏡を見ているのに鏡にはわたしが映っていない、という事態を想起させる。それを「見ている人」の存在が消えている、と。だがもともと劇映画においては、カメラ(見ている人)の存在を意識させないような構図やモンタージュが追及されてきた(逆に、疑似ドキュメンタリーというのは要するにカメラがそこにあることを意識させる形式であろう)。だがここで、鏡に「それを見ている人」が映っていないという違和感は、「見る人」(=カメラ)の存在を意識のなかで前景化させるので、映画がもともと持っているカメラの非人称性そのものへの違和感へと繋がる。カメラを映さない鏡への不信感は、鏡に映らないカメラ(見ている人)への違和感(その不在が意識される)に繋がり、つまりこの映画全体、この映画の世界そのものが、それを見ている人をその内部に含まない世界であるように感じさせる。視覚像が、それを見ている人の外界にひろがる(それを見ている人も含まれる)世界に起因するのではなく、視覚像それ自身として閉じている時、それは妄想や幻覚のように信用ならないものとなる。鏡像の根拠となる実像が消えてしまうというか、合わせ鏡的に増殖する像のなかで、どの位置にそれ(実)があるのか分からなくなる感じ。
この、世界全体が嘘っぽくなる感じと、主人公の意識の混乱とが重なって、その混乱にリアリティが宿る感じ。でも、「実」はなくなるのではなく「虚」の増殖のなかで行方不明になるだけなので、いきなり回帰して暴力的に主人公に作用する。
●午後はUSTで「森のバロック」読書会というのを視聴していた。
http://www.ustream.tv/recorded/17470382 (その録画)
この動画で清水高志さんが、中沢新一のやっていることに一番近いのはアクターネットワーク論だという発言をしている。ラトゥールは『虚構の「近代」』で自分のやっていることを対称性人類学だと書いているし、中沢新一にも『対称性人類学』というタイトルの本がある(読んでないけど)。この共通点から最近ちょっと中沢新一に対する興味が湧いてきたのだが、やはり繋がりがあるのだなあ、と。