イメージ、描写、空間

●絵画を、イメージ、描写、空間という、それぞれ異なる要素が独立したまま絡み合っているものとして、とりあえずは見ることが出来るかもしれない。イメージとは、例えば顔が描かれているとしたら、それが「顔」だと分かり、その顔がイエスのものだったり、聖母のものだったり、あるポップスターのものだったり、あるキャラクターのものだったりすることが、一瞬にして理解できるということだ。それはつまり、あるひとまとまりの視覚的情報が、すぐさま「解」としての名詞(固有名)と結びつくような情報処理のあり方だと言える。(そこに描かれた対象のイメージだけでなく、セザンヌの絵画をその特徴から一瞬にして「セザンヌだ」と理解するのも、「セザンヌの(セザンヌ的なものの)イメージ」によるものと言える。だから、抽象的な形態でも、ポロックのイメージとか、中村一美のイメージとか、そういうものがあると言えるだろう。)描写は、それが誰の顔であるかということではなく、肌の色や艶がどのようであり、顔の起伏のラインがどのようであり、そこにどのように光が射し、目が潤み、唇が湿り、豊かな黒い髪がウエーブして肩に掛かり、薄く透けた衣装にその軽さを表すようなドレープが重なっている、というような、それぞれの細部の表情を表すということだろう。描写に注目するとき、もはやそれが誰のもので(あるいは誰によって描かれたもので)何を表しているか、それがどのような場面であるのかは大して重要ではなく、あらゆる細部は、世界のなかにひしめくように生起する様々な表情のバリエーションの束へと還元されてゆくだろう。(これもたんに描かれたものの表情というだけでなく、色彩そのものの表情だったり、絵具そのものの物質感の表情だったりもするだろう。)空間とは、そのようにして様々な細部へとバラバラにされたものたち同士の関係を再び構築することでよって浮かび上がるものだと言えるだろう。それはほぼ一瞬にして理解されるイメージとは違って、多少なりとも時間をかけて画面を読み込むことによってはじめて浮かび上がる。目は画面のなかを滑り、それぞれの細部を次々に追ってゆき、細部同士を関係づけることで空間となる。(様々な細部がまるで「星座」のように関係づけられて空間になる。)その時、一枚の同じ地図から、目的地までの道順を探したり、高低差を読むことで地形を割り出したり、複数の犯行現場をマークすることで犯人の行動の特性を探り出そうとしたりと、様々な事柄が見る側の能動的な視線によって浮かび上がるのと同じように、絵画を観る側の能動的な「読み込む」という行為によって、読み込む時間のなかで様々な空間が組み立てられては、組み直されるだろう。絵画は目の前に物理的に存在しているのだが、しかしそれは観る者の視線による構築(幻影?幽霊?)を生み出すマトリクスとしてあるのだ。細部と細部とを読み込んで行くことで関係づけるのには「時間」が必要とされるので、一瞬にして「全体」が把握されるイメージ的な認知とは異なり、決して「全体」が出現することがなく、常に全体から何かが足りない状態でありつづける。(「全体」の出現を果てしなく遅れさせつづける。)意味は流動的に変容する動きのただなかにあり、次の一手によって情勢(それまでの関係の意味)は変化しつづける。だから、空間とは、細部と細部との関係づけによって構築されるイリュージョンであるだけでなく、その構築物を吹き抜けて行く一陣の風であり、その構築物に潜在的に貼り付いている亀裂でもあるのだ。
絵画が観るに足りるものであり、それについて思考するに足りるものであるとしたら、このような異なる次元の表現(異なる処理の仕方を要求する情報)が、寄り合わされ、圧縮されるようにひしめいている状態であるからだろう。(ある一つの形式とその亀裂という見方をする限り、それはロマン主義に行き着くしかない。そうではなく、常にすでに、複数の形式のハイパーな野合として一枚の絵画は成立している。しかもそれが物理的には一枚の平面上に圧縮されているのだ。)絵画の「内容」とはそこに盛り込まれた情報を処理するのに必要とされる形式の複雑さそのもの(どのように複雑であるかという、複雑さのあり方、複雑さの固有性)にあるのであり、その形式的固有性こそがリアリティーを保証するのだと思われる。