クリント・イーストウッド『ブラッドワーク』

●渋谷東急2で、クリント・イーストウッド『ブラッドワーク』、シネセゾン渋谷で、J・L・ゴダール『恋人のいる時間』。しとしとと降る冷たい小雨がしぶとくて、なかなかやまないと思っていたら、レイトショーが終わって電車が家の近くの駅につく夜中過ぎには、大粒の雪になっていたのだった。
●ある時期以降のイーストウッドの映画を観ていると、とても冷静ではいられない。冒頭からいかにもイーストウッドらしい夜景のヘリコプターショットが示され、脇役的な人物に続いてイーストウッド本人が登場し、決して惨殺された死体をこれ見よがしに示さずに、しかしそこで悲惨な事件が起こったということを示すには充分なゆるやかな長い移動撮影があらわれると、もうそれだけで心が揺り動かされでしまうし、それに続いて、いかにもイーストウッドらしい物語が、いかにもイーストウッドらしい主題の連鎖によって美しく的確に語られてゆくものだから、これはもう泣いてしまうしかない。だが、引き締まっているとはいえ、充分以上に年老いたことを物語っている素肌が晒され、そこに刻まれた痛々しい傷口が露出すると、それはまるで存在の最深部に横たわる根元的な傷がそのまま露呈してしまったかのようで、イーストウッドのその特徴的な身体が生きている生の苛烈さに対して、「泣く」という行為はあまりにも感傷的でひ弱なものでしかないことが思い知らされ、改めて襟を正すことになるのだ。実際のイーストウッドがどんな人なのかは知らない。成功したアメリカ人の一人として悠々と暮らしているだけなのかもしれない。(『スペース・カウボーイ』のプロモーションでテレビに出ていた、自宅でインタビューを受けているイーストウッドは、ただの赤ら顔のおじいさんにしか見えなかったし。)だが少なくとも、映画作家として、映画俳優として、フィルムに刻みつけられたその生は、恐るべき苛烈さによって貫かれているように感じられる。『ブラッドワーク』は、ある宿命から逃れ、そこから遠く離れたと思っていた人物が、再び宿命に直面させられるという意味では、ほとんど『許されざる者』の反復といってもよいと思うのだが、『許されざる者』の主人公が「許されざる者」であるのは、本人の過去の行いによってであり、また、再び「許されざる者」へと回帰してゆく時も、最終的な決断は自らの意志によるもので、それを全く回避できなかった訳ではないのに比べ、『ブラッドワーク』の主人公にとっては、「宿命」は自分の意志やコントロールとは全く無関係なところで(勝手に機械が動いてしまうように)全て決定されてしまっているのだ。(「偶然」によってではなく、自ら望まない、全くの邪悪な意志によって彼は死から生へと呼び戻されたのだ。何人もの犠牲者と引き替えに。)だから、ここでの主人公の行動は、自らの意志や思いとは全く無関係に刻みつけられてしまった「宿命」に対してどのように落とし前をつけるのか、ということによって決定される。イーストウッドの老いた身体に刻まれた傷は、自分が全く感知し得ない事柄によって、知らないうちに「許されざる者」となってしまったという印なのだ。だからここでイーストウッドの苛烈な生にとって問題なのは、宿命によって選ばれてしまったという自らの特権性を、特権として受け入れて享受するのでもなく、特権的な宿命に対してあくまで自由意志によって抵抗を試みるのでもなく、「宿命によって選ばれてしまったこと」に対して自らの手でどのような「落とし前」をつけることが可能であるのかを探る、ということに賭けられるのだ。イーストウッドは、自らの存在の固有性そのものであるような傷を引き受け、それとともに苛烈な性を生きるのだが、しかし決して自分の存在の根拠を「傷」に求めたりはしないし、その傷に埋没してしまったりもしない。イーストウッド的な強さとは、たんに傷=宿命を引き受けるということのみにあるのではなく、むしろ傷=宿命とともにありながらも、決してそこに埋没してしまわないという点にこそあるのだと思う。この映画における、まるで取ってつけたような、白々しいとさえ見えるかもしれない、都合の良すぎる、あっけらかんとした「ハッピーエンド」が示しているのは、何よりもイーストウッドのそのような「強さ」であろう。凡百のハードボイルドだったら、宿命=傷と甘ったれた感傷とが結びつき(それを「ダンディズム」とか言う)、そこに埋没することで終わってしまいがちなのだ。『ブラッドワーク』のイーストウッドは、一方で宿命=傷を受け入れた苛烈な生を生きながら、他方でそれとは直接関係のない他者たち、ことに子供や複数の女性たちと、とても美しい関係を結んで行くのだ(ここには当然、蓮實重彦によって「変態」と名指されたような関係も含まれる)。晩年期のイーストウッドの映画の魅力は、ハードボイルド的な「宿命=傷」の苛烈さよりも、むしろこのような他者に対するやさしくて柔らかくて美しい関係のあり方の方にあると言えるのかもしれない。(なお、パンフレットに掲載されている蓮實重彦による文章に書かれていることは、イーストウッド好きにとっては、当然知っているべき基本的な事柄なので、にわかイーストウッドファンは必ずチェックされたい。)