J・L・ゴダール『恋人のいる時間』

●昨日観た、J・L・ゴダール『恋人のいる時間』について、ちょっと。大ざっぱに言えば、初期のゴダールの映画はみなカップルについてのものばかりだ。さらに大ざっぱに言えば、カップルとは言っても男の方はただ悩んでいるばかりで、重要なのは常に女の方なのだ。つまり初期のゴダールの映画はみな女についての映画なのだ。ゴダールにとって女とは、常にイメージであると言えるだろう。例えばトリュフォーにとってなら「女」は「触る」ものであり、あたたかくてやわらかいものという感じがある。(そしていつもやや母親的なものだ。)まさに「柔らかい肌」な訳だ。(いや、トリュフォーにとって女とは「脚」だという説もあるが。)ロメールが捉えようとする女の表情は、いつもイメージからズレてしまうような「ナマ」のものだろう。つまり決して自らのイメージを制御しきれない、ふとした瞬間の仕草、観られていることを意識しない時にふとあらわれる表情のようなものそ、ロメールを強く惹きつける。それこそがロメールにとって自然であり恩寵でありエロである。しかしゴダールにとっては女ははじめからイメージ以外のなにものでもない。(『恋人のいる時間』で不倫相手の俳優は、女の肌に触れながら、恋愛は表面でするものだ、と言う。)それも、風呂に入り、髪を梳かし、化粧し、服を着替える、自らのイメージを自らがつくりだすようなイメージであるのだ。だからゴダールの映画では、ルノアールの絵の少女とアンナ・カリーナが滑らかに結びつくのだし(『気狂いピエロ』)、下着の広告写真とマーシャ・メリル(保田圭に似ている)が滑らかに結びつくのだ。確かに、下着の広告写真のイメージは紋切り型である上固定的なものでしかない。対して、アンナ・カリーナのイメージは、「これ」という固定的な形態に留まることはなく、すばしこい猫の姿のように捉え難く、活き活きとしていて流動的だ。しかしこの2者の差異は段階的に変化する程度の違いであって、そこに絶対的な断絶がある訳ではない。(アンナ・カリーナはたんに移ろいやすいイメージなのであって、そこに実体や本心や秘密がある訳ではない。いや、実体や本心や秘密は、イメージの移ろいやすさの「効果」としてはじめて発生するのだ。)一方に最も活き活きとして捉えがたいイメージとしてのアンナ・カリーナがいて、もう一方に固定化された紋切り型の広告的なイメージがあり、その間のグラデーション上に様々な絵画や写真からの引用、あるいは実在する女優が配置されるだろう。(だからロメールのように、イメージからふとズレた「ナマ」というのはあり得ない。ただ、陳腐なイメージがあり、より活き活きとしたイメージがあるというだけなのだ。)例えば、よりアンナ・カリーナに近い側に『軽蔑』のブリジット・バルドーがいるとすると、もっと広告的イメージに近いところに、『男性・女性』のシャンタル・ゴヤや『恋人のいる時間』のマーシャ・メリルが(あるいは『メイド・イン・USA』のアンナ・カリーナが)いるという訳なのだ。(前者の、作品としてより高度で強いものをつくろうとする志向とは別に、後者では、大衆消費社会のイメージに埋没してしまうような存在を描くことで、社会的な考察を行おうとする志向がゴダールにはある。そして両者の間を割合自由に行き来できるのは、ゴダールが女を常にイメージとして捉えているからだろう。だから初期のゴダールは、マネであると同時にコンスタン・ギースであることが出来たのだ。)『恋人のいる時間』はゴダールの映画としてはそれほど出来の良いものとは言えないだろうが、ゴダールにおける女=イメージのあり方が割合よく分かるようにつくられているという意味で、とても面白い。(ゴダールにおいては女=イメージであるということは、勿論、映画表現上のことであって、例えばマティスの絵画では、実在のものも、絵に描かれたもの、つまり絵のなかの絵も、布地の模様も、ほぼ同等に扱われる、というのと同じような意味であって、何もゴダールが女性の主体性を認めないとか、そういう話ではない。)