モディリアーニと井上実

●渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」、神楽坂のAYUMI GALLERYで、井上実・展http://www.ayumi-g.com/ex07/0717.htmlナディッフゴンブリッチの『美術の物語』を買う。この、煉瓦のような、というか、コンクリートブロックみたいな本を抱えて、神楽坂まで移動した。
●モディリアニは好きな画家だ。セザンヌマティスみたいに、凄い、とか、刺激される、とかいう感じではないが、その人物描写の繊細さと正確さは、観るたびに何度でも唸らされる。ただ、モディリアニを観ていつも考えるのは、この人は35歳で死んだのだけど、もし、あと40年生きていたとしたら、今、モディリアニとして残っている絵以上の作品をつくることが出来たのだろうか、ということだ。(つまり、この絵に、今以上のものに成り得る可能性が刻まれているのだろうか、ということだ。)モディリアニの上手さ、掴むべきものを決して踏み外さない正確さ、様式化されてしうギリギリまでフォルムを切り詰めつつも、人体の空間や人物の佇まいのなまなましさを取り逃がすことのない把握力、これらのものは、モディリアニの関心がごく狭い範囲に限られていた、ということによって成り立っているようにもみえる。つまり、既に完成されて(可能性を使い尽くして)しまっているのではないか、とも思えてしまう。モディリアニが常に、夭折した美貌の画家、アンニュイな雰囲気、モンパルナス周辺の芸術的な香り、等々といった、感傷的な「物語」とともに語られてしまうのは(そして近代絵画史上ではそれほど重要な画家とはみなされていないことは)、ぼくには不当なことと思われるのだが、しかしそれは決して理由のないことではないのかも知れない。モディリアニは最良の「小さな画家」なのかもしれない。でもそこには、ヨーロッパ美術の深い奥行きがある。例えばマティスがあきらかにピエロ・デラ・フランチェスカと響きあっているのと同様、モディリアニはボッティチェリと響きあっている。それはたんに影響とか模倣とか引用とかいうことではなく、もっと深い場所での響き合いなのだ。モディリアニの描く人物のフォルムのうつくしさは、ウフィツィで観たボッティチェリのヴィーナスや三美神の、画面の構成やアナロジーを超えたフォルムそのもののうつくしさと、あきらかに繋がっているように思われる。
この展覧会では、ジャンヌの素描やタブローも、モディリアニと同じくらいのボリュームで展示されている。ジャンヌはあきらかにモディリアニに強く影響を受けていて、一生懸命、モディリアニの技術を自分のものにしようとしている。だからこそそこにはっきりと、どうしようもない「違い」が見えてしまう。ジャンヌの目や手には、空間を大きくゆったりと捉える「粘り」がない。だから、空間を小さく刻むようにして捉えるしかなくて、人体だけでは画面がもたず、背景などをいろいろ描き込むことが必要となる。ジャンヌの素描の線はしばしば、そこで途切れたらダメでしょう、というところでプツ、プツと途切れる。最後の粘りが足りないので空間がたちあがらず、平面構成のようになってしまいがちだ。モディリアニの線は、はじまるべきところで正確にはじまり、途切れるべきところで正確に途切れる。なんでもないような一本の線が確実に空間に絡み、空間をたちあげる。これを当たり前のようにやっているので、ただモディリアニだけを観たのでは、そんなに大したことだとはなかなか気付かない。でも、ジャンヌの素描と並べられることで、モディリアニの線の驚くべき正確さがあらためて見えてくる。モディリアニの人物を描くタブローが、フォルムや色彩をかなり切り詰め、しかもあきらかにモディリアニ的とすぐにわかるブォルムに変形しているにもかかわらず、それが決して平板にも様式的にもならず、そこにいる人物の佇まいを伝えるのは、たった一本の線で正確に空間を絡めとる、モディリアニの空間の正確な把握力のためだと思われる。
この展覧会には、ジャンヌが、病気で臥せっている夫のモディリアニを描いた何点かの素描が展示されていた。その素描は、ジャンヌの夫への強い愛や病気(死)への不安などが反映されてはいなくて、おそらく看病の合間に、気まぐれで、あるいは気晴らしに、ササッと手を動かしてみた結果だというような、あっさりとした感じがある。ジャンヌは、夫の死後、後を追って自殺してしまうような人だから、夫への執着も強く、看病している時の不安や恐れも相当なものだったのではないかと思われる。しかし、絵を描いている時の画家は、自らを非-人間的な「描く機械」としているので、そのような執着や不安から一時だけでも逃れることができていたのではないだろうか。たまたま目の前にいる、たんなる一人の人を描くようにして、その絵は描かれているようにみえた。そう考えると、絵を描くって不思議なことだなあと思うのだった。
●井上実の作品は、安定した質の高さを示しているものの、ちょっと「安定し過ぎじゃないの」という感じもそろそろみえてきたように思う。そしてそのことは作家自身も自覚していると思われ、それが、昆虫という難しいモチーフに挑戦しようとしていることに現れているのではないだろうか。植物や野菜を描くことと、例えば蝶を描くこととではどう違うのか。井上実が蝶を描く絵は、蝶の羽の模様を主に描いている。しかしそれは、たんに羽の模様がきれいだからそれを絵に移しているのではないだろう。羽の模様はあくまで羽という平面を彩る模様でしかなく、それは例えば、植物の葉の形という実体をもった「もの」とは異なる。蝶にとって実体は「蝶」や「羽」であって羽の「模様」ではない。しかし、蝶を描こうとする時、どうしたって羽の模様は描かねばならなくなるのだが、しかし羽の模様を描くと、それは蝶という実体よりも「絵のなか」では強く出て来てしまう。つまり絵という平面のなかでは、描かれた立体(蝶そのもの)と描かれた平面(模様)とは区別がつかなくなるどころか、むしろ平面のなかの平面(模様)の方が強く実在感が出る傾向にある。井上実がやろうとしていることはおそらく、これを逆手にとって、蝶そのものをほとんど描かず、羽の模様ばかりを描くことで(模様そのものに過剰な実在感を与えることで)、逆に、蝶という実体を描きだそうとする(浮かび上がらせようとする)、ということなのではないだろうか。これは例えばマティスオダリスクのシリーズで、背景に派手な模様の布を張り巡らせることによって、その異なる模様の亀裂の間に、人体のボリュームを浮かび上がらせようとした試みと似ているようにも思う。