『オトシモノ』と『トップをねらえ2!』

●古沢健『オトシモノ』をDVDで。これは全然ダメな映画だった。まず、主演の沢尻エリカがダメで、この人はカメラの前でどうしたら自分が「かわいく写るか」しか考えてないんじゃないかと思う。しかしそれは主に監督の責任で、監督は下手な女優を上手にさせることは出来なくても、例えば、そこで首をかしげるな、とか、そこで無駄に動くな、無駄なリアクションするな、台詞を喋る時に顎を上げるな、とか、その程度のダメ出しは出来るはずで、当然するべきだと思うのにそれをしてしない。(というか、この監督は俳優の演技に基本的ニ興味がない感じだ。)この90分程度の映画で、監督がやりたかったのはおそらく最後の30分だと思うのだけど、その前の一時間が、たんにジャパニーズホラーのテクニックを適度に散りばめたというだけのつくりで(かといって、技術が驚くほどにハイスペックだというわけでもない)、だからせっかくの最後の30分も生きていないように思う。(電車の使い方はちょっと面白かったけど。)この映画の序盤でするべきなのは、沢尻エリカと母親と妹との関係をきちんと描くことで、中盤ですべきことは、沢尻エリカ若槻千夏との友情を「成立させる」ことなはずなのに、それがいい加減だから、ラストとかも全然生きていない。特に、沢尻エリカ若槻千夏の「友情の成立」をどう描写するかということは、この映画の成否を決める最も重要な点であると思われるのに、そこにほとんどまともな配慮が払われているとは思えない(ほとんど、友情の成立を強引に台詞で説明するだけ)。中途半端な風俗の取り入れ方も、その程度だったらやらない方がいいのに、という感じだ。この映画で唯一、若槻千夏が死んでしまう踏切のシーンだけは素晴らしいと思った。
●『トップをねらえ2!』の、4話から6話までをDVDで。この作品を、最初の1話と2話だけを観てつまらないと判断したのは間違いだったみたいだ。このシリーズは、最初に単純な設定だと思わせたものを、話が進んでゆくうちに次々とひっくり返してゆく、というような構成になっていて、だから後の方になればなるほど面白くなってゆく。4話で主人公が目覚めて、それによって5話で世界が反転してしまうというような展開には、驚かされ、感心させられた。(4話と5話との間に大きな飛躍があるところなんかは、『トップをねらえ!』をそのまま継承しているわけなのだった。)一作目は、まさにそこで作家が生まれた瞬間のなまなましさが刻まれていたわけで、それを二作目で反復することは不可能なのだから、二作目は徹底して意識的に作り込む(意外な展開をつくりだしてゆく)というやり方でなんとかそれに拮抗しようとしている姿勢には、ベタに感動させられた。ただ、最終話は、脚本の榎戸洋司の「手癖」が出過ぎていて、ちょっと引いてしまったりもしたけど。(折り鶴の使い方とか、「わたしの特異点をお姉様に」みたいなところ。)
トップをねらえ!』の面白いところは、庵野秀明という「作家」が生まれつつあるという出来事が刻まれている点にある、とか書いていることと矛盾するようだけど、ガイナックスの作品を観ていつも感じるのは、このような作品の密度は決して「一人の作家」によってはつくることの出来ないものなんだなあ、ということだ。例えば映画なんかでも、決して監督一人でつくるものではないのに、監督が「作家」とされるのはおかしい、みたいな言い方があるけど、やはり映画においては、様様なスタッフやキャストに支えられつつも、作品の中心にいて、作品の質に責任をとる人としての「作家」が監督であることは、結果として出来た作品を観る限り、妥当なことだと思われる。アニメでも、宮崎駿はあきらかに「作家」であろう。しかし、『トップをねらえ2!』という作品の充実は、決して一人の中心人物としての「作家」によって組織されたものではなく、複数の強者や曲者たちがあつまって、それぞれが自分の技術を発揮しつつ、話し合ったり喧嘩したりしながらつくっていって、その結果として出来上がったものだという感じが凄くする。そいういことを「理屈」として言うのは簡単だけど、実際に密度のある作品をつくるという行為は技術だけでは足りなくて、どうしてもある種の求心性が(つまりぶっちゃけ「才能」が)必要となるので、そのようにして作品が成立することは稀であるように思える。(勿論、ここで鶴巻和哉監督に作品を束ねる能力や才能が不足しているというようなことを言っているのではない。何しろ、『フリクリ』という大傑作をつくった人なんだし。)