●事の善し悪しはともかく、おそらく多くの画家は、盗作ということについてかなり無頓着であると思う。それは、目の前にあるリンゴを、見えたままそっくりにキャンバスに描くことと、目の前にある誰かが描いたリンゴの絵を、そのままそっくりにキャンバスに写し取ることとの間に、基本的な違いはないからだ。盗作を成立させるためにはおそらく二つの能力が必要だろう。一つは、盗もうとするオリジナルの作品が「優れたもの」であることを判断する能力で、もう一つは、盗もうとする作品の「優れたところ」を、自らの手で描く作品の上にも実現させることの出来る能力だ。つまり、目と手との両方が必要なのだ。例えば、文章を写し取ることは、文字を読み、書くことが出来る者なら誰でも可能で、だから文章をパクる場合に必要な能力は、ただパクる対象が「優れたもの」であることを判断する能力のみであろう。対して、ある絵画をパクろうとすれば、そのパクる対象の作品が、どのような組成を持ち、どのような順序で組み立てられているかを、完成した作品から読み取る能力がなければならず、そしてさらにそれを自らの手で再度実践出来る「腕」がなければならないだろう。画家が、自らのアイデンティティーを賭けるのは目よりもむしろ手であって、だから画家には、パクりだろうが何だろうが、自分の「手」によって産み出されたものは自分の作品だという思いが強くある。だって実際に、俺が俺の手で描いたんだから、と。
●アメリカに、リチャード・ディーベーコーンという画家がいる。彼の作品の「良いところ」はほとんどマティスに依っていることは明らかだ。それは、多少でも絵画に詳しい人なら誰にでも分かることだし、画家本人もまた、マティスからの影響を隠すことなどないだろう。しかしだからといって誰も、ディーベーコーンをマティスのパクりだと言って非難することはないだろう。ディーベーコーンは、マティスの作品から的確に良いところを見つけ出すための彼ならではも眼力をもち、それを、自らの作品の上に実現するための彼ならではの腕をもつ。そしてその作品は、マティスほどではないとしても、ある一定の魅力的な高い質をもつ。マティスの絵に魅了されたとしても、それを誰でもが簡単に真似できるわけではない。試しに、自分の好きな絵画を真似して描いてみれば、その作品の「見栄え」ではなく、その「良さ」を模倣することがいかに困難かわかるだろう。良い作品の「良さ」の在処をみつける目をもち、それを自らの作品の上に再現できるだけの腕をもっていれば、その画家はそれだけでかなり大したものだと言える。勿論、それだけで満足してよいということではないが、それにしても、それだけで相対的にはかなり立派なことなのだ。ディーベーコーンを、マティスと同等の画家だということは出来ないが、それでも彼が良い画家であることは確かだろう。
●ところで、和田画伯の作品が下らないのは、それが「盗作」だからではないだろう。それがよしんば、何者をも観照することのない和田画伯独自の努力の集積によって産み出され、たまたまイタリアの画家の作品とかぶってしまったに過ぎなかったとしても(あるいは、よしんばイタリアの画家の方がパクったのだとしても)、その作品が下らないものであることには何のかわりもないだろう。和田画伯に賞を与えた選考委員の責任は、盗作に賞を与えてしまったところにあるのではなく、下らない作品に賞を与えてしまったというところにこそある。和田画伯が責められなければならないとしたら、「盗作」をしてしまったことではなく、彼の描く絵が駄目な作品でしかないということについてだろう。和田画伯の作品が(そしてそのオリジナルであるスーギ氏の作品もまた)つまらない作品でしかないことは、多少でも「良い絵画」を観た経験のある人になら誰にでも分かることだろうと思う。にも関わらず、何故和田画伯の作品が賞を得てしまったのかと言えば、その賞の審査をする人たちが、和田画伯と同じ程度に駄目な画家であったということであろう。
●正直ぼくには、自分で作品をつくっていても、どこまでが「他人の作品の模倣」で、どこからが「自分の作品の制作」なのかよく分からない。(作品が出来上がってしまってから、これって誰々に似過ぎててヤバいんじゃないかと思ったりもする。だけど、)実際に絵を描いている時には(絵を成り立たせるのに必死で)そんなことはほとんど問題にならない。ただ言えるのは、質の高い/低い、あるいは、志の高い/低いということははっきりとある、ということだろう。剽窃の天才と言われたピカソの剽窃と、和田画伯の剽窃との違いは、おそらくそこにしかない。和田画伯の剽窃は、ただたんに「日本の画壇」においてある位置を得たいという卑小な目的のみに基づいたものであるという点において、卑小であるのだ。(実際、今回の盗作騒動だって、和田画伯の受賞を妬んだ誰かがチクったことで表面化したのだろうし、和田画伯のような画家は他にもいて、この騒動の火の粉が、次は自分の所にかかってくるのではないかとヒヤヒヤしている画家は、少なくないのではないかと推測できる。)