●お知らせ。五月五日に紀伊国屋サザンシアターで行われる「日中韓 大江小説読みくらべ」というシンポジウムに参加します。
http://www.kinokuniya.co.jp/label/20110404113358.html
ぼくは『水死』について二十分くらい喋る予定です。全体としては『水死』を中心とした長江古義人シリーズについてのシンポジウムだと聞いています。なんか、すごいメンバーのなかで超浮いてる気がしますが…。
●芸術を甘く見積もって、それに勝手に幻滅した人は、その幻滅を芸術のせいにしないでほしい。何かに対して甘い幻想を立てて、勝手にそれに幻滅して、その幻滅を(自分の甘い見積もりのせいではなく)幻想の対象のせいにする、というようなことを繰り返してはいけない。芸術が何万年というスケールでつづいていることの意味を考えなくてはならない。
出来事の直後に表面的な形で目に見える激変は氷山の一角で、その影響は潜在的な次元で時間をかけて進行し、それは予想の出来ないある時に、予想も出来ない形でぬっとあらわれる。芸術が問題とするのはそのような潜在的な次元での出来事であり変化であって、そのことは自体は、今までもこれからも何もかわらない。顕在化した出来事の衝撃が大きければ大きいほど、表面的な「激変」に惑わされてはいけないというのは、大昔からの芸術のかわらない教えだと思う(勿論、惑わされないわけにはいかないのだが…、だからこそ)。
地震や津波や原発崩壊があろうがなかろうが、芸術は常に、既に、それを扱っている。だがそれは、主題として、予言として、シミュレーションとしてではない。潜在的にはいつでもそのようなことがあり得るこの世界そのものの「深さ」を扱うのが芸術だということだ。