●アニメ『少女終末旅行』の第八話、よかった。人類が(ほぼ)いなくなった後の、どこまでも広がる広大な墓。墓には名と遺品。それを見守る石像。この墓は、誰に対してあるのか。
そこ通りかかったチトとユーリは、二人にカメラをくれたカナザワについて話す。そして、この会話は成り立っていない。チトは、カナザワはまだ無事に生きているだろうかとつぶやく。それに対しユーリは、大丈夫、このカメラがある限りカナザワのことは忘れないから、と返す。
チトは、チトやユーリの意識や記憶とは独立した、客観的なカナザワの存在(生存)を問題にしているが、ユーリは、二人の意識や記憶の外にある客観的世界を想定していない(あるいは、信用していない)ようにみえる。
しかし、人間がほとんどいなくなった世界において、この二つを厳密に分けることができるだろうか。人類は、絶滅はしていないが、ほんのわずかしか残っていなくて、人と人とが出会うことがきわめて稀であり、離れてしまえば連絡を取り合う手段もない。空間は広く、しかも上下にいくつもの階層に分けられているので面積ははてしなく大きい(追記:そして、「世界そのもの」に対するメタ知識はほぼ失われている)。だから、一度別れてしまった誰かと、偶然に再会する確率はほぼゼロに等しいし、その人物に関する情報が入ってくることもまずあり得ない。
この時、再会することもなく、連絡をとることも出来ない誰かの存在は、ほとんど光円錐の外の世界にいる存在と等しく、すくなくともチトとユーリにとって、その世界は意味としては無いに等しい。生きて別れることと、死別することとの、意味の違いがほとんどない。つまり、広大な空間に対して、存在する人(観測者)の数が極端に少ない(存在の濃度がきわめて低い)場合には、個々の主観性の重要度がきわめて大きく、自分から独立した神の視点のような客観性(客観的世界の存在)を措定することがとても困難になる。
カナザワがまだ生存しているのかということと、カナザワのことをまだ憶えているのかということの意味の違いは、事実上はほとんどないくらいに小さい。
だから、この物語世界においては、二人の会話の食い違いは、事実上、ほとんど食い違ってはいない。しかし、この食い違いが意味するものは、客観性と主観性の違いが無意味化しているということだけではない。チトとユーリとの間で、世界の捉え方が食い違っているということを意味している方が大きい。
チトには、人類の全てが消えた後にも存在する客観的世界への意識があり、ユーリには、それがない(あるいは、きわめて希薄だ)。だからこそユーリは、誰も訪れることのない「墓」をそれでも尊重しようとするが、ユーリはそれほどでもない。
あるいは、チトは「石像が視点をもつ」こと(石像の主観性)など信じていないが、ユーリは、人類が消えたとしても「石像の視点」はまだ生きていると(つまり、世界は人類滅亡後も、「客観的」にではなく「石像による主観」として存続しているはずだと)信じているのかもしれない。
それは、カメラがある限り、カメラをくれたカナザワもありつづけるという感覚とも通じるのかもしれない。