●テレビがまったく映らなくなった。DVDやビデオは観られるけど。
ヒッチコックの『めまい』をすごく久しぶりに観た。当然だけど、すっごい面白かった。正直、いまさらヒッチコックを観直してもなあという気持ちがどこかであったのだが、とんだ思い違いだった。今観ても超とっぽい。
もしかしたら、極端な望遠レンズのために人物と背景とが分離して見えているだけなのかもしれないけど、墓場に佇むキム・ノヴァクを尾行するジェームス・スチュアートを捉えたカットで、他のカットは普通に屋外で撮影されているのに、ごく短い二つのカットだけが、スクリーンプロセスによる合成画面のように見えるところがあって、これは何なのかと思った。望遠レンズのせいだとしても、なぜ、ここでこんなに極端な望遠レンズで人物と背景を分離させなければならないのか(失敗したカットを無理矢理つないだみたいで、つながりがすごく不自然なのだ)が分からない。確かに、そのせいでこの場面に異様な雰囲気が出てるし、ここでジェームス・スチュアートが越えるべきでない壁を越えてしまった感が出ていると言えば、言えるのだが。あと、背景となる「窓の外」で、異様なまでに細かいことをいっぱいやっていて、俳優の演技よりも窓の外ばっかり観てしまう。勿論、この映画では窓や鏡といったフレームはとても重要なのだけど、それにしてもやり過ぎなくらいやっている。特に、マデリンのことを聞きに行った本屋のショーウインドウ越しに見える通りの描写がすごくて、きっとこれはスタジオでセットを組んで撮影しているのだろうから、この背景のために、とんでもなく時間とお金を使ってるんじゃないかと思った。カメラの位置とかカットをつなぐタイミングなんかでも、えっ、そこなの、みたいな、微妙にずれたことをやっていたりする(高さを強調するわけでもない中途半端な俯瞰とか)。ジェームス・スチュアートの顔とキム・ノヴァクの顔とが、同じ構図の同じ位置に配置され、モンタージュされるところが何カ所かあり、これはこの映画の主題上納得出来ることではあるのだけど、それでもやはり、観ているとすごく変な感じがする。
●なぜ、いまごろ『めまい』を観たかというと、「寝ても覚めても」を読んで(以下、ネタバレがあるので未読の方は注意)、途中で《亮平》が出てきた時に、「えーっ、この小説は『めまい』だったのか」とおどろいたから(同時に『欲望のあいまいな対象』でもあると思うのだが)。最後まで読んでみると、この小説と『めまい』とが、その主題を正確に(しかし裏表の関係で)同期させているのが分かる(実際に作家がヒッチコックを意識していたのかどうかは知らないし、それは別にどうでもいいことだと思うけど)。
《亮平》が《麦》の反復である以上に、《麦》が既に何者かの反復としての「イメージ」であって、だからこそ終盤、俳優となった《麦》のイメージがメディアを介して回帰してくる。しかし、「寝ても覚めても」が『めまい』と異なる点は、『めまい』では大胆に省略されている「時間」こそが、もう一つの大きな主題としてあるところだと思う。時間の外にあって何度も回帰するイメージと、イメージの反復に抗し、イメージを固有性へと定着させる定着剤としての時間との拮抗(『めまい』では、イメージを同一性へと帰着させるものは、外的な「証拠」としての物-宝石だったのだが)。ここで時間とは、《亮平》と過ごす時間の「厚み」であるのと同時に、十年という年代記的な時間でもある。イメージと時間の拮抗こそが、この小説にダイナミックな動きと激しい力(感情)を生んでいるように思われる。終盤の激しい展開は、十年という時間の幅を、回帰するイメージの無時間性が嵐のように押し流してしまいそうなところを、はたして踏みとどまれるのかどうか、ということではないだろうか。そしてラストには、イメージと時間との拮抗とは、また別の有り様(イメージ-他者)が示される。
とはいえこの小説は、このような粗いまとめ方で済ませられるようなものではなく、もっと丁寧に読まれるべきなのだが、それはまた、もうちょっと経ってからにする。
●どうでもいいことだけど、「麦(ばく)」と「キム・ノヴァク」は音が似ている。両方とも緑色の服を着ている。