●いつものように喫茶店にいると、バニラのような、甘くて、しかし落ち着いた感じの、とてもよい匂いがしてきて、あっ、誰かがパイプで刻みタバコを吸っている、と思う。以前、バイトをしていた時に、パイプでタバコを吸う人がいて、それが本当に良い香りなので、すごく良い趣味だなあと思っていた。禁煙席に座っていたのだが、喫煙席との仕切りごしに、近くの席を見回してみても、誰もパイプを持っていない。あれっ、と思いながらも、それ以上は追求せず、用事をつづけた。しばらくして、また、それがふわっと香ってきた。店内をひろく見回すと、かなり離れた、ぼくの席からは対角にあるような位置にすわったおっさんがパイプを吹かしていた。あんなに遠くから、まるで隣の席で吸っているかのような濃厚な匂いがやってくるのか、と驚いた。
●五人で競争すれば、一位の位置には誰か一人しかつけないし、逆に、誰か一人は必ず一位になれる。一つのおにぎりは、誰か一人が食べればなくなってしまうし、五人で分ければ、五分の一ずつしか食べられない。しかし芸術はそういうものではない。五人すべてが一位であることもあれば、誰も一位に値しないかもしれない。すべての人が一つのおにぎりを食べられるかもしれないし、誰も食べられないかもしれない。芸術の正しさは、相対的でもなければ排他的でもなく絶対的であり、ただ、それ自身の内在性に、それ自身のクオリティだけに依っている。誰もが生存競争から逃れられないとしても、芸術の原理は生存競争の原理から離脱している。生存競争とは別の原理を創造することこそが、芸術の使命であろう。あらゆる生物のなかで人間だけが、生存競争の原理、排他的な原理とは別の原理によって作動する「芸術」というものを創造し得た。これはやはりすごいことではないかと思う。《二個の者が same space を occupy する訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや》(夏目漱石)という原理から離脱することにこそ、芸術の意味はある。
テレビがまったく映らなくなってしまったので、ずいぶん前に録画した(既に何度か観た)グレン・グールドのドキュメンタリーのビデオをぼんやり見ながら食事をしていた。インタビュアーが、何故、コンサートをやらなくなったのか質問している。そこから、何らかの「正しさ」の主張を引きだそうとしている。まあ、その質問をしないわけにはいかないのだろうけど、そんなの、コンサートが嫌だったからに決まってるじゃんと思う。グールドにとって、コンサートは形骸化した形式であり、前世紀の遺物であり、非音楽的な場であろう。それはグールドにとっては「正しい」。しかし、別の音楽家にとっては、コンサートこそが音楽であるということもあり得る。その正しさは、それぞれの音楽家の内在性、それぞれの音楽家のもつクオリティにおいてのみ測られる。どの程度の深さ、どの程度の強さで、それが生きられるかにかかっている。どちらかが正しければどちらかが間違っているのではなく、両方とも正しいかもしれないし、両方とも間違っているかもしれない。それは、一人の音楽家のなかでは両立出来ないかもしれないが、この世界のなかでは両立し得る。まあ、言うまでもないことだけど。
この社会が完璧に平等ではない以上、立場の違いによる敵対性が消えることはない。誰かが得をすれば、必然的に誰かが損をする。誰かが生きるために、別の誰かを殺さなくてならないかもしれない。しかしそれは、政治的、社会的、経済的な問題であって、芸術的な問題ではない。生存競争の次元をゼロにすることは、今、すぐには出来ない以上、政治的、社会的、経済的な問題はありつづけるが、同時に並列的にそれとは「別の原理」を立てることは可能であるはずだ(それは決して絵空事ではない)。だから芸術にとって、立場の対立などは問題ではない。それぞれに異なる。それ自身としての正しさ、それ自身としてのクオリティ、それ自身としての強さだけが問題なのであって、それは排他的なものではない。5月の気持ちよく晴れた日の空や空気は、9月の雨の降るしっとりとした空や空気を否定するものではないし、それはどちらも、飢えて今にも死のうとしている人のもとにも、一生蕩尽しつづけても使いきれないほどの金が余って倦怠している人のものとに、平等に訪れる。芸術とはそういうもので、そのような次元を断固として(必死に)「確保する」ためのたたかいでもある(でも、人は排他的な愛情を求める存在でもあるので、きわめて困難な道のりではあるのだが)。
それは逆からみれば、別の何かを否定することによって、自分自身の立場を確かめたり、正当化したりすることは出来ないということでもある。敵対する誰かをおとしめたからといって、それが自分自身の正当性の保証にはまったくならない。あっちに比べれば、こっちの方がまだマシだ、とか、敵の敵は味方とか、そういうことには何の意味もない。芸術は、自分自身の内的な正しさや必然性、自分自身のクオリティの高さによってしか、自分自身を立てることが出来ない。