●「正しさ」を前提としないで、どのように判断を組み立てることが出来るか。おそらく、作品をつくる時にも、批評をする時にも、というか、生きているあらゆる場面で、このことが常に繰り返し問題となる。「正しさ」を根拠としてしまった時点で、あらゆるものは鬱陶しくなる。以下は、岡崎乾二郎の発言の引用。(「国文学」2003年8月号より)
《批評というものが不可能になったとか、力がなくなったと言われるけれども、僕の理屈では、むしろ消費者や素人ほど批評家であらざるをえない。サイードの言う知識人の定義も素人そのものでしたけれど、消費者そして素人が批評家であるほかないというのは、彼らがデータとして頼りにできるものは、最低限、自分の身体の反応しかないわけで、それに対して疑いをもちつつ、どうそれを解釈し、判断し、それに賭けるか。それが日常生きてゆく上で常に強いられる。これは基本的に批評の原理そのものでしょう。すると、批評がなくなることは絶対にありえない。人が生きていると同義ですからね。
ここで単純に賭事のようなロマン派的決断主義でやらないで、判断を組み立てるテクニックはいろいろあるはずなわけですね。これは職人さんたちの知恵やスポーツマンの知恵からも学びとることができる。ともかく、いくら知の最前線の本を沢山読んだって大体は忘れてしまうのだから、使えるものになるとは限らない。》