●See Saw gallery + hibitで開催される井上実展のオープニングのトーク(井上実、柄沢祐輔、古谷利裕)のために名古屋へ。
http://www.seesaw-gallery.com/exhibitions/2019/1335
●ぼくは、井上実の作品は(すくなくともぼくが知っている限り)世界的にみても非常に特異で重要な達成を示していると思う。しかも、少しずつ確実に進化(深化)している。これ以上に重要な画家が他にどれだけいるのか、と。ただ、ぼくは井上くんとは古くからの友人なので、ぼくがこんなことを言っても「友達だから評価を大げさに盛っているんだろう」と思われてしまいがちだ。まあ、そう思われるのはある程度仕方ないことかもしれないのだが、しかし実際にその作品を観てみれば、そんなことはないことがすぐに明らかになるのではないかと思う。そうであるにもかかわらず、多くの人が井上実の作品に注目していないという事実が、ぼくには不可解だしとても不満だ。
ごく素朴に、誰が観ても普通にすごいでしょ、くらくらくるでしょ、こんなの他では観たことないでしょ、と思うのだが。
●井上実の作品のすごいところは、「地にはスケール感がない」ということを、限定されたフレーム(パースペクティブ)をもった絵画によって示していること、つまり、視覚的には表現不能であるはずの「底の抜けた地のスケール感のなさ」を、「図によって(視覚的に)表現する」ということが実現されているところにあると思われる、という話を(具体的な細かい話に入る前に)トークの冒頭でした。
これだけだと何を言っているのか分からないかもしれないのだが、これは、たとえばストラザーンが『部分的つながり』でカントールの塵などを例に挙げて、「フレームのスケールと関係なく、図の情報量は一定」と言ったりしていることと関係がある。トークでは、よりわかりやすく、説得力があると思われる、以前(改めて調べたら2016年だった)、清水高志さんがツイッターに書いていた『正法眼蔵』の引用と解説をお借りして説明した。
以下、引用元URLと引用。これは重要で、とてもわかりやすいので、何度でも参照され直す価値があると思う。
https://twitter.com/omnivalence/status/813770452132712448
たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。
https://twitter.com/omnivalence/status/813771047912673280
かれがごとく、萬法またしかあり。(『正法眼蔵』弁道話)うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。
https://twitter.com/omnivalence/status/813771136861253632
しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。(同)
https://twitter.com/omnivalence/status/813772139710943233
(訳)たとえば、船に乗って山のない海に出て四方を見ると、ただ円く見える。他の形が見えることはない。そうではあっても、この大海は、円いのでもない、四角いのでもない、残った海徳(海の徳)は尽くしがたい。宮殿のようであり、瓔珞のようだ。ただ私のパースペクティヴのおよぶところ、
https://twitter.com/omnivalence/status/813773902396596224
円く見えるのである。あらゆるものがそんな風なのだ。」「魚が海をゆくとき、泳いでも海の果てはなく、鳥が空を飛ぶとき、飛んでも空の果てはない。そうはいっても、魚も鳥も、いまだ昔から水や空を離れることはない。ただ大きく用いるときは大きく使い、少ししかいらないときは少しだけ使うのだ。
https://twitter.com/omnivalence/status/813776043257364481
そうであるのに、水〔の果て〕を極め、空〔の果て〕をきわめてから水や空を行こうとする魚や鳥がいるとしたら、水にも空にも道を得られないだろうし、居場所を得ることもないだろう。ここのところが分かれば、日々の生活が仏道の成就となるのだ。」
https://twitter.com/omnivalence/status/813777810795819008
魚や鳥は、「大きく用いるときは大きく使い、少ししかいらないときは少しだけ使う」という風にして、それぞれの環界を作って海や空と融和し、それらと離れることなく生きている。それは、彼らの自己制作であり、彼らが海や空を制作しているのだ。
https://twitter.com/omnivalence/status/813778835363667968
限られたパースペクティヴしか持たないからと言って、それを足したり増したりして海や空の果てを極める必要はない。そんなことをしても、道も居場所も得られない。自分が制作し、それによって自分自身をも制作する環界は=客体は、パースペクティヴが多である以前に、一であるが全でもあるのだ。