●お知らせ。聖蹟桜ヶ丘のキノコヤで井上実展が開催されます。期間は、10月12日から12月1日まで。
井上実展@キノコヤ
https://www.facebook.com/events/570210896849472/
展示の初日、10月12日(土)に、井上実さんとぼくとでオープニングイベントとしてトークを行います。開始は18時30分から。
アーティストトーク 井上実×古谷利裕(井上実展オープニングイベント)
https://www.facebook.com/events/396000668015057/
井上実HP
(この件をお引き受けした後に気づいたのだが、保坂さんの「小説的思考塾vol.6」の日と重なってしまっていた……。)
●以下の引用は、道元『正法眼蔵』の「現成公案」から。まるで、「(図と地の)地にはスケールがない」というような底の無さを示している、井上実の作品について解説しているかのようだ、とぼくは思う。玉城康四郎の現代語訳による。
《魚が水を行くとき、いくら泳いでも水に果てしがなく、鳥が空をとぶとき、いくらとんでも空に限りがない。しかしながら、魚も鳥も、いまだかつて水や空を離れたことがない。働きが大きいときは、使い方も大きいし、働きが小さいときは、使い方も小さい。》
《このようにして、そのときそのときに究極を尽くしており、その所その所に徹底しているのである。もし鳥が空を離れるとたちまち死んでしまうし、魚が水を出ればたちまち命はない。したがって、水がそのまま命であり、空がそのまま命であることが知られよう。》
《それにもかかわらず、水を究め、空を究めてのちに、水や空を行こうとする鳥・魚があるとしたら、水にも空にも、道を得ることも所を得ることもできない。そうではなく、この所を得れば、また、その道を得れば、この日常現実がそのまま永遠の真実となる。この道、この所というのは、大でもなく、小でもなく、自分でもなく、他のものでもなく、初めよりあるのでもなく、いま現れるのでもないから、まさにそのようにあるのである。》
《人が悟りを得るのは、たとえていえば、水に月がやどるようなものである。月もぬれず、水もやぶれない。悟りも月も、広く大きな光ではあるが、小さな器の水にもやどる。月全体も大空も、草の露にもかげをおとし、一滴の水にもうつる。悟りが人をやぶらないことは、月が水をうがたないようなものである。人が悟りをさまたげないことは、一滴の露が天空の月をそのままやどすようなものである。》
《たとえば舟にのって、島も見えない海のなかに出て四方を見廻すと、ただ円く見えるだけである。どこにもちがった景色は見えない。しかし実際は、大海が円いというのではない。また四角なのでもない。眼に見えない海の性質というのはとても尽くすことはできない。一水四見といって、同じ水でも、人間にとっては水に見えるが、魚には宮殿であり、天人には瓔珞(玉の首かざり)であり、餓鬼には濃血である。海の場合も、ただ眼の届くかぎりが、しばらく円く見えるだけである。》
《あらゆるものの在り方を学ぶには、円い四角いと見えるほかに、海や山の性質は限りがなく、さまざまな世界のあることを知るべきである。自分の身の廻りのことだけではない、足下の一滴の水もそうであると知らねばならぬ。》