●多くの場合、「責任を負う」というリスクを回避するために、いろいろ面倒な手続きが必要となり、さまざまな場面で柔軟性がうしなわれてゆく。責任という概念をもっと軽くみることができれば、人はもっと柔軟になれるのではないか。責任という概念に頼らなくても上手くいく社会のシステムを考えることはできないのか。
(責任という概念をまったくなくしてしまうのは無理だとしても、責任の適応範囲を出来る限り限定し、そして分散することは可能だろう。というか、国家も会社も共同体も、そもそもそういうものなのか。)
でもこの場合、大きな障壁となるのが、人のもつ「恨み」、あるいは「傷つく」という感情になるのか。恨みや傷はなかなか消えない。であれば、どうしたって「責任をとれ」と強く言わなければ気持ちとして釣り合わなくなる。あるいは、傷つけられないために、責任という概念で人を縛る、という欲求がでてくる。
●誰かが「責任をとる」ことがなければ人は納得しない、のだろうか。いわゆる「偉い人」は、誰にも責任のとりようもないことの責任をとるために存在する。実際に働くのは別の人たちだが、そこでの集団的仕事に重大な失敗があった場合に、責任をとる誰かが必要になるので、そのためだけにでも「偉い人」が必要になる。そのような形式を、人の感情は要求する、のだろうか。責任者がいて、「その責任はオレがとる」ということで、人は何かを信用する。そのような形式を書き換えることは可能か。
●責任をとることができるのは、人格や魂をもつ者だけなのか。ある数式があり、その数式を根拠にさまざまな事柄が決定される。しかし、ある時、その決定に重大な欠陥がみつかった。だからその数式には責任をとってもらって、「この数式は間違いだ」という評価を受け入れてもらい、様々な事柄を決定できる地位からは降りてもうらう。こういう責任ではいけないのか(「数式」を「人工知能」に変えることも可能)。しかし、その数式が間違っていることで被害を受けた人は、数式を恨んだり、憎んだりできないから駄目なのだろうか。責任は、恨んだり憎んだりできる存在にとってもらわなければならないのか。
(ここで、数式や人工知能が神や王のような信仰対象になれば、「神(王)を殺す」という方法で、責任をとってもらうことが可能になる気もする。)
●魂とは、責任の主体であり得るという(他の魂に対する)信用のことなのか。
●安倍政権を憎んで、安倍晋三を憎まず、というのは可能か。あるいは逆に、安倍晋三を憎んで、安倍政権を憎まず、は。
●責任と信用とは、どちらがより人を縛るのか。何かをしたことで、「責任をとらされる」と思うことと「信用を失う」と思うことでは、どちらがより重く人に作用するのか。あるいは、どちらが社会的によい効果となるのか。
●責任という概念は、個という概念と強く結びつく。ブロックチェーンのような仕組みで、何がどう行われているかのすべては透明になっているけど、それを誰が行っているのかは分からないような匿名性の高い仮想的な社会をつくって、そこで人々がどう振る舞うかのシミュレーションを行うことは可能だろう。
そのコミュニティがよいものであり、コミュニティが維持されることが自分にとって利益になると多くの人が思えば、匿名であってもただ利己的にだけ振る舞うわけではなくなる、のだろうか。