Gallery覚の小林聡子展

●昨日観た、銀座のGallery覚(http://www6.ocn.ne.jp/~g.kaku/)での小林聡子展(http://www6.ocn.ne.jp/~g.kaku/kobayashisatoko.html)について。この展覧会は、一昨年から去年にかけて一年間タイに滞在した作家が、タイで制作し、チェンマイバンコクで発表した作品を改めて展示したもの。
小林聡子の作品をはじめて観たのがいつだったかもう忘れてしまったけど、多分、92年か93年くらいだと思う。(92年のぼくのはじめての個展の時に、その画廊でバイトしている小林さんを知った。作品を観たのもほぼ同じ頃だと思う。)その頃から現在まで、この作家の作品は驚くくらいにかわらない。いや、この作家は、基本的に作品の形式にはあまりこだわりがないように思われ、素材や技法、形式、制作のプロセス、展示の仕方等は、発表の度にその都度ことなるという意味では、むしろ多様であろう。そしてそれらの選択は、作家のその時の生活環境を、割と素直に反映しているもののように思われる。でも、何を使って、どのような形式の作品をつくっても、結果としてそれは「小林聡子の作品」としか言えないようなものになる。それは独特の(高いレベルで保たれた)質をもち、おそらく誰でも(美術を特によく観ているという人でなくても)一度観れば分り、忘れないようなものだ。それは独自の透明感と、スカスカ感をもつ。特に濃密なわけでもなく、かといって希薄でもない。緊張感が漲っているわけではないが、緩いというのでもない。それは密というよりは疎だが、疎であることによって、空気と光りとをその内部に含み持つ。いや、含み持つとか取り込むとかではなく、作品はそれらを、その内部に招き入れると同時に風のように通過させる。(作品のモチーフであり素材であるネットやコップは、空気や光りをそこに留めることは出来ないが、通過させることによってそれらの存在を顕在化する。)間口はひろく、何でも柔軟に受け入れるようだが、しかし作家という濾過装置を通り抜けると、物はどれも皆、似たような性質をもつものに変換されてしまう。小林聡子の作品はおそらく、技法とか形式とかコンセプトとかではなく、高度に維持された「趣味」による厳密な選択(と排除)によって成り立っているのだと思われる。この、決して踏み外されることのない「趣味」の自信に満ちた一貫性は何なのだろうか、と思う。しかしその作品は「自信に満ちた一貫性」という言葉がまったく似つかわしくないような繊細なものなのだが。
例えば、今回の展示では、タイの屋台ではごく普通に使われているという、きわめてチープなプラスチックのコップを使ったインスタレーションがあって、(作家の了解を得て)その一個を手で持ってみると、本当に凄くチープな大量生産物でしかないコップなのだが、それが、作品として示されたものをみると、まるで小林聡子の作品のために特別につくられたものであるかのように感じられてしまう。この作品を「形式」としてみるならば、安易な「おしゃれなインテリア」みたいなものとキワキワなものなのだとも言えるのだけど、にも関わらずそれに「小林聡子の作品」としか言いようのない「質」を与えてしまうのがこの作家なのだ。(それだけだろうと言われると、まあ、それだけなのかも知れないけど、でも、それだけで充分じゃないか、と思えるようなものではある。)今回の展示では、ペインティング、版画、写真、インスタレーションと、形式の異なる作品が、広いとは決して言えない画廊に同時に置かれているのだけど、それらが決してガチャガチャとうるさい感じにならないのは、それらの配置がきわめて高い配慮によって決定されているからと言うよりは、それらの作品の全てが「小林聡子の作品」であることによって皆同質のものであるということの方が大きいように思われる。(Gallery覚での小林聡子展は17日まで。日曜休み。)