佐々木浩久『血を吸う宇宙』

佐々木浩久『血を吸う宇宙』をDVDで。ぼくは基本的に高橋洋の脚本の仕事をあまり面白いとは思わないし、佐々木・高橋コンビによる同様の趣向の前作『発狂する唇』は全く退屈だとしか思わなかったのだが、ほんの気まぐれで観たこの映画は案外面白くて、高橋洋という人のやりたいことと言うのか、高橋氏の作家としての想像力の「質」のようなものが、はじめてリアルに感じられた。
●『血を吸う宇宙』は『発狂する唇』と同じように、高橋洋の作品に強迫観念のようについてまわるいくつもの「主題」を、あらかじめ共有された「趣味としての悪趣味」によって味付け(つまりそれによって毒気を抜かれ)、てんこ盛りにして仕上げられた作品と言えるだろう。ぼくは昔からこのような「分かってやっている」というエクスキューズのついた悪ノリが嫌いで(『スチュワーデス物語』とか全く面白いと思えなかった)、それは、教室という守られた空間のなかで、教師が「お前たちいいかげんにしろよ」と突っ込んでくれることを前提として行われる、小学生の悪ふざけのようなものにしか思えないからなのだが、ただ、今の気分としては、そういうことを楽しいと思う人がいるなら、それはそれでいいんじゃないかという感じで、あえて強く批判する気もないのだが。
ウィニコットによれば「遊戯」は母親を必要とする。遊戯が成立する空間では、母親は半ば身を隠し、なかば現れている必要がある。つまり、母親による絶対的な支配(母親への依存)から逃れて、ある程度の自由と能動性が確保されていなければならないが、同時に、何か危険があった時はすぐに母親が介入してそれを解決してくれるという「安心感」も必要である。母親はここで、ハードな現実と子供の能力とを媒介し調整する存在として、遊戯の成立する空間の地平(基底)を下から支えている。子供は、このような遊戯の空間によって、現実に対応し行動するための、いわば「遠近法」を身につけるのだが、それ以上に、現実がある程度「安定したもの」であるという、現実に対する(無意識において作動する)信頼感を得ることが出来るということが重要なのだ。子供は、遊戯において、あらかじめ知っていること(あらかじめ構造=全体を先取りしていること)の退屈な反復を好むが、しかし既知のものの反復だけでは飽きてしまうので、反復のなかでのちょっとした新鮮さを求める。既に知っていることの反復は、(ドゥルーズの言うリトルネロのように)一定の安定した地平をかたちづくり、それは母親の存在による「安心感」(世界の安定性への信頼)の代替物となり得るだろう。(つまり「遊戯」における退屈な反復がある一定の安定した環境=基底面をつくりだすことで、遊戯は、母親の支配下から独立したものの方へと一歩足を踏み出す。《怖くても、小声で歌をうたえば安心だ。》ドゥルーズ=ガタリ)そのような(退屈とも言える)反復によって安定した地平が生じることで、そこに混じり込むちょっとした新鮮さ(あるいは多少の混乱や混沌)を受け入れ、そこから、未知の新たな次元(構造)を発見し獲得する(つまり「発達」する)ためのジャンプを可能にする、「余裕」や「勇気」が生まれる。
●『血を吸う宇宙』が面白いのは、一見、あらかじめ共有された「趣味としての悪趣味」という安定した地平が用意されているようにみえて、実はその物語の構造によって地平そのものが崩れてしまっているように思えるからだ。この映画の物語はまさに、当然事実だと思っていた出来事の「事実性」が、次々に足下をすくわれるように崩壊してゆくことによって展開する。ひとつひとつの出来事、それを彩る様々な細部は、高橋洋的なものの(分かり切った)反復でしかないようにみえるのだが、それが書き込まれるべき基底的な場所(地平)が液状化を起こし、なしくずしに崩れてゆき、その「崩れる」という動きによって物語が展開する。そして重要なのは、そのような構造をこの映画が持っているということと、この映画のなかに盛り込まれた様々な主題や細部とが、分ちがたく結びついているように思える、ということだ。この映画に盛り込まれた様々な要素は、たんに交換可能なギミックでも、「趣味としての悪趣味」によって制御されたネタでもなく、このような構造をもった作品を構成するために、必然性を持って生み出された細部であるように「みえる」のだ。
●現実と妄想との区別が失われるということはつまり、ある程度安定したものとしての「現実」(A=Aという自同律が成立し、因果関係がはっきりしていて、故にある程度未来が予測され、それに対する働きかけが可能だと信じられるような環境)を失うということだろう。我々が、現実のある程度の恒常性を当たり前のように信じていられるのは、無意識のレベルで作動している「世界への信頼感(親しさ)」のようなもののおかげで、それは「遊戯」のなかでの既知のものの反復が生む「安心感」のようなものとして、我々と世界との関係の基底面を支えている。そして、それが無意識のレベルで作動しているものである以上、いつ、どのようなきっかけで崩れてしまうか分からない。それが崩れてしまうのではないかという恐怖、あるいは崩れの予感のようなものを、我々はどこか特定出来ない場所から忍び寄る得体の知れない感触として、常に感じているのではないだろうか。だからこそ、この映画の様々な細部(例えば、阿部寛のうつくしい恋人が、まったく異なる姿、むさ苦しいオッサンとして再び彼の前にあらわれる、というような)が、妙にリアルに感じられるのだと思う(この、阿部寛の青春時代のエピソードは、リンチの映画などよりずっとリアルな感触がある)。現実と妄想の区別が失われ、世界が安定性を失ってしまった時、世界は覚めることの出来ない悪夢のようなものとして現象し、悪夢が悪夢であることの強さによってのみリアリティが保証されるようなものとなるだろう。その時、世界は、まさにこの映画のように、チープで類型的で悪趣味な細部でびっしりと埋め尽くされ、脱出すべき、その外側も「隙間」も存在しないようなものになってしまうだろう。(だから、このような世界は、しばしば主人公の死によってしか解決しないものとなる。しかしこの映画の主人公は、死んだ後も、蜘蛛となってこの悪夢の世界に戻ってこなくてはならないのだった。)そして、そのような感触こそが、高橋洋という作家の想像力の「底」を形成しているように思う。