⚫︎U-NEXTで『Polar Night』(磯谷渚)を観た。うーん、今ひとつかなあと思ってしまった。
⚫︎やや弱いと感じられるのは、この映画が、男性も含めた五人の登場人物(実際に画面に映っている人物)たちの関係のあり方と推移に絞って、その関係をキリキリと追い込んでいくところを集中して見せようとする映画なのか、それとも、吸血鬼の主題、母から娘への呪いの伝播(分身的反復)、絵画(表象と現実の相互浸透や因果逆転)というような、抽象的な要素(抽象的な次元)まで含めて構築されるような映画なのか、そこがどっちつかずになってしまっているということではないかと思った。
(高橋洋の映画でたとえると、『旧支配者のキャロル』の方向なのかそれとも『ザ・ミソジニー』の方向なのか、みたいなことだ。)
⚫︎おそらく前者の、演出によって人物たちの関係性をキリキリ追い詰めていくような方向が目指されている映画のように思われたのだが、だとするなら、河野和美が、母親の死の様子を語り、自身も母を反復するように死に至るという(運命が反復されるような)展開は、五人の関係からすると外的な要因なので、五人の関係の煮詰まりを具体的に詰めていく展開からすると、その緊張を弱めてしまうように思えた。吸血鬼要素が強く出過ぎているのも、(ジャンルへの愛好の気配を感じさせて)具体的に関係を煮詰めていく過程を弱くしているように思えた。
⚫︎あるいは逆なのかもしれない。具体的な「関係」による成り行きが決定論的な「運命」にあっさり敗れてしまう(逃れたくても「反復」を呼び込んでしまう)、という映画にこそしたかったのだ、と。その場合、吸血鬼要素はジャンルへの愛好などではなく、まさに母から受け継いだ(受け継がされてしまった)「現実的な呪い」の抽象化された「喩」ということになるだろう。そう考えるなら、呪いの発端となり、また、呪いによる破綻が訪れる場所が「両親から受け継いだ家」であることも納得できる(呪いの反復を避けようとするのならば、峰平朔良も河野和美もこの家に戻ってきてはいけなかったのだ)。ただ、だとするなら、たとえ不在であるにしても「母の存在」がもっと強く匂わされていないと成り立たないのではないか。この映画では「母」は、河野和美の語りの中にしか存在しない。あるいは、「母の代理」もしくは「母の呪いの使い魔」として廣田朋菜がいるのか。
⚫︎いや、違うか。廣田朋菜があらかじめ「母の代理」として存在しているではなく、結果として「母の呪い」を補強してしまうことになる関係として河野-廣田関係があり(この出会い、このカップリングが、たまたまそのように作用してしまうものであった)、他方に、母の呪いを解除し得る関係として河野-峰平関係があり、いっとき、河野-峰平関係が優位になって呪いが解除されかかるが、最後に河野-廣田関係が再来・回帰してしまい、一挙に逆に振れて破綻に至ってしまった、と。ここで、一度は関係から排除された廣田を、再び登場人物たちの関係内部に呼び込むことになる原因は、登場人物中でもう一人の女性である北澤響と峰平との関係の対立・悪化であるのだから、この再来・回帰は登場人物たちの関係の、玉突き的・ビリヤード的な出来事の連鎖の結果なのだ。こう考えると「呪いの反復」は、悲劇ではあっても必ずしも決定論=運命ということでもなくなる(河野-峰平関係が優位のままである可能性もあった)。
⚫︎いずれにしろ、(河野和美の)「母」の占める位置・役割が今ひとつはっきりしないということが、この映画の弱さということなのか。
⚫︎あと、映画に出てくる「絵画」はなんであんなにダサいのか問題がこの映画にもあって、もうちょっと頑張って、ちゃんとした、説得力のある「絵画」を出してほしいと思ってしまう。絵画がけっこう重要な要素なのに「その絵なの…」と思ってしまうのだ。
(冒頭のナレーションの「調子(堅い一本調子)」によってこの映画を貫く「調子」が一発でわかる、という滑り出しの感じはとても良いと思った。)