李相日『スクラップヘブン』

●渋谷のシネカノン試写室で、李相日『スクラップヘブン』。これはかなりひどい映画で、駄目な映画だと思う。出来が悪いとか、やろうとしていることが上手くいっていないとか、映画的な才能が云々とか、そういうことではなくて、根本的に駄目なのだと思う。李相日という人の映画をみたのははじめてなのだけど、この人は多分何も考えていなくて、雰囲気だけで、様々な「現代」っぽい細部をかき集めて繋げて(時間をもたせて)いるだけのだと思う。(例えば、物語の枠組みは明らかに青山真治の『EUREKA』だし、オダギリジョーと父親の関係なんかはモロに『Helpless』なんだけど、それらの映画で青山真治が「何を考えているか」について、何も考えられていない。あるいは、「医療ミス」とか「虐待」とか、今日的なトピックを物語に入れているけど、それらの社会的な出来事について、新聞を流し読みする以上のことを、まともに考えているとは全く思えない。こういうことを、こんなに軽くて浅い「ネタ」として扱っていいと、本当に思っているのだろうか。)李相日という人は、この映画の主人公の警察官と同じくらいに、何も考えていないし、「想像力」に欠けている。(この人物は、自らが警察官であるにも関わらず、拳銃を盗まれた警官が責任を感じて自殺してしまうということが「あり得る」ということさえ事前に「想像する」ことが出来ない。そして、そのような人物の隣に、あんた今すげーかっこいいよ、とか言う人物を置くというのは、一体どういうことなのか。)あらゆるものが通り一遍のイメージで流されていて、それ以上に深く突っ込まれるところが一ヶ所もない。(例えば俳優にしても、その俳優の「イメージ」としてしか使われてなくて、上っ面のイメージを超えるものは何もない。)ただ、この映画は、まともに何も考えないということが、いかに恐ろしいとこか、ということだけは、嫌というほど教えてくれる。作品をつくるというのはとても難しいことで、それはおそらく映画でもかわらないと思うのだが、いろいろなことを考え、一生懸命やったからといってそれが上手くゆくとは限らないし、むしろ上手くゆくことの方が稀であるのかもしれない。しかし、最低限、自分がやっていることがどういうことなのかを、ひとつひとつ丁寧に考えてやっていれば、ここまでひどいことにはならないはずだと思う。李相日という人は、作品をつくるという作業の途中で、自分のやり馴れたやり方、考え方や感じ方の癖、自分が置かれている状況のもっている慣例、その場の作業の流れやノリのもつ強制力、などについて、それがもし「固着」したものになりがちだったとしたら、何故そうなのかという必然性について、それらを一旦突き放した目でみて、それについて一度でもまともに考えるということがなかったのじゃないか、そして、その結果出来てしまうのが、このような映画なのではないか、と、『スクラップヘブン』をみていると、どうしても思えてしまうのだ。
●この映画に限ったことではないけど、人は何故「現在」を問題にしたがるのか、そして、「現在」を問題にしたとたん、何故しばしば簡単に思考停止状態に陥ってしまうのか、については、人ごとなどではなく、もっとちゃんと考える必要があるのかも知れないと思った。