ゴダールの『勝手に逃げろ/人生』が...

ゴダールの『勝手に逃げろ/人生』が今月末にDVDで発売されるらしい。確かこの映画は日本では一度もソフト化されていないと思うのだが、ぼくはこれがゴダールの映画のなかで、単純な意味で最も「面白い」映画だと思う。(最も「好きだ」というのとはまた別なのだけど。)ちょっと前に蓮實重彦が「動体視力」という言葉を流行らせようとしていたのだけど、ぼくは「動体視力」という言葉はたんに「視力」でしかないから面白くないと思っていた。運動を捉えることは、それ自体が運動であるというニュアンスが「動体視力」という言葉からはあまり感じられない。あるいは、運動を捉えること、が、「捉える」という次元で止まってしまう感じが面白くないと思う。もっと単純に(言葉としてはありきたりだけど)運動を捉え得る「運動神経」とか言った方がまだマシではないだろうか。(蓮實氏自身、『表層批評宣言』のあとがきで、大江健三郎が蓮實氏の名前を送られてきた文芸誌の目次で見つけると、そのまま中身も見ずにゴミ箱へ放り投げてしまう、という本当か嘘か分からないエピソードを挙げて、自分の言葉が大江氏のような偉大な作家に、そのような具体的な(放り投げる、という)「アクション」を誘発させたことを誇らしく思う、というようなことを書いていたではないか。)そのような話はともかく、『勝手に逃げろ/人生』は、ゴダール映画作家としての「運動神経」が最も研ぎすまされた時期の、それが最も直接的に現れている映画ではないかと思う。いわゆるソニマージュ的な技法の洗練という意味では、この時期はまだ荒削りな感じなのだけど、その荒削りな感じが生々しくこちらの感覚を直接的に捉えて、その「生」な感じがとても開放的で、こちらの感覚をも活気づけるような「面白い」映画なのだ。ゴダールの優れた運動神経は、その機敏さ、鋭さ、と同等のものを、それを観る観客に対しても要求してくるようなもので、それが時に鬱陶しく、時に押し付けがましく、時に重たく、時にトゲトゲした感じを観客にあたえもするのだが、しかしそれは多分に、それを受け取るこちら側の体調や頭の調子も関係するものだ。『アワーミュージック』の優しく穏やかな調子は、ゴダール自身(の身体)が歳を取ったことで、それを受け取る側の身体(体調)に対する優しい配慮が生まれたことよるところが大きい気がする。そんなに気張らないで、もっとゆったり観て下さい、というような。(とはいえ、電話をとろうとしたゴダールが柱に頭をぶつけるシーンなどを観ると、ゴダールの身体はまだまだ充分しなやかに「動く」ことが感じ取れて、嬉しくなるのだけど。それにしてもゴダールの腹があんなに出ているとは!、とも思ったけど。)