中上健次をつづけて読んでいると

中上健次をつづけて読んでいると、これって深作欣二みたいだ、と思うところがけっこうしばしばあって、それで、『仁義なき闘い』と『仁義の墓場』のビデオを借りてきて、『仁義なき闘い』を観た。ほとんど内面が感じられない(「内面」はなくても、まるで運命のように「人格」のようなものはそれぞれあるのだが)ヤクザたちが、ひたすら状況と関係の力学に翻弄され、戦後のどさくさの時期に杯を交わし朋輩になった者たちが、いつの間にか互いに殺し合うことになってしまう。まっすぐなタチであるため、「親父」のためにずっと刑務所にいた菅原文太と、ずば抜けた才覚と器の大きさでのし上がり、利己的で小ズルく立ち回るばかりの「親父」を追い落として権力を手にしつつある松方弘樹が、車の後部座席で会話を交わすシーンには心を動かされた。松方弘樹は、のし上がる過程で多くの朋輩たちを殺しており、そのことが許せない菅原文太は、松方弘樹を殺そうとする。しかし松方は待ち伏せをしていて、菅原を捉えて車に乗せる。そこで松方がぽつりと、自分はどこで道を間違えてしまったのか、夜中に一人で酒を飲んでいるとヤクザなどやめたくなる、しかし、朝になって若い衆たちに囲まれると、そんなことは忘れてしまう、と言う。菅原はそれに対し、狙われる側より狙う側の方が強い、そんな弱みをみせると危ないぞ、と言う。すると松方は、俺はここで降りて家に帰るから、お前も好きなところで降りろ、お前を殺るのはまたの機会にする、今日はお前を殺る気になれない、と言って車から降りてゆく。(松方には「家庭」があり、この後、子供へのおみやげのために立ち寄ったおもちゃ屋で撃たれる。)このシーンは、よどみなく進む映画のなかで唯一時間が停滞するようなシーンであり、ここでの松方弘樹からは、ほとんど内面などないかのように、見栄と策略と切った張ったの世界(この映画はほとんどそればかりで進行してゆく)で生きている存在にも、不可避的に生じてしまう内面の軋みようなもの、あるいは、存在してしまっていることの重さ(倦怠)のようなものが、濃厚に滲み出している。(しかし、関係の力学=構造にぴったりと重なることでのし上がり、生き延びて来た松方にふと生じた、この澱み=内面=ズレこそが菅原の言う「弱み」であり、それが松方の命を失わせてしまうのだが。)深作欣二が連想されるのは主に『千年の愉楽』や『奇蹟』のような中本系列の作品なのだけど、ここでの会話は、そのまま『地の果て 至上の時』での、秋幸と龍造の会話であっても少しもおかしくはない。(改築した秀雄の部屋に籠る龍造は、『枯木灘』での龍造と異なり、あきらかに「内面」的なものが想定され得る人物となっている。龍造が自殺したのは、「父」というシステムの自壊であるよりは「兄」の死の反復であるようにみえるのだが、作家が龍造に「内面」が発生する「余地」を描き込んだ、その当然の帰結としてあるとも言えるのではないかとも思えた。)あるいは、北野武の映画は、この映画のこのシーンだけを、ひたすら拡大することで出来ている、とも言える。