08/01/20

●内的な秩序の、外的環境に対する自律性。外的な環境の変化に対して、内的なものがある一定の関係性を維持していること。例えば生命。私の体温は、寒い外から、暖かく暖房の効いた室内に入っても、ほぼ一定の値を維持する。あるいは、三ヶ月前の私と、今日の私とでは、新陳代謝などにより、物質的なレベルではまったく同一とは言えないが、それでもほぼ同一の性質、技能、記憶を維持している。
作品が、自律しているということ、外的環境から「閉じている」ということは、そのようなことを意味している。今朝の気持ちのよい空気は、午後になれば消えてしまうし、夕暮れの微かで透明な光は、夜になると消えてしまう。しかし「作品」はそれを、(とりあえず、今ここにある)なにかしらの媒介物を加工し、それを自律的に存在する「ある関数」へと変換することで、恒常性をもたせ、保存する。その保存は決して永遠のものではないが、作品の内的な関係性(自律性)が持続する限りは、持続する。作品とは、ある感覚を現前させる装置であると同時に、それを記録し、保存する装置でもある。
何故、保存するのかといえば、そこへ「遅れてやってくる人」のためにだ。作品は、その出来事が起こったときはそこに居ることが出来なかった人、あるいは、その時はまだ生まれていなかった人を、そこで、ひっそりと「待っている」のだ。作品は、人が、その作品にふさわしい観者になるのを、あるいは、未だ存在しない観者が生まれてそこへやってくるのを、いつの日か読まれ、理解されるのを、黙って静かに待っているものなのだ。作家は死んでしまうかもしれないし、生きていても「別者」へと変質してしまうかもしれないが、作品は、そこでそのまま待っている。(だから、未だ観者が存在しない作品こそが、つくられるに値する。)
作品は、内的関係を維持し、「待つ」という性質によって、生きている我々が必然的に捕われている「同時代」や「現代」を逃れる力をもつ。現在が我々「生きるもの」に強要する「同調」という強力な圧力から逃れる力をもつ。生きている者は、生きつづけたいのであれば、現在が突きつけて来る外的環境に対応するしかない。しかし作品は、現在とはまったく別種の時間をもつことが出来る。これが「作品」というもののもつ、もっともうつくしくて貴重な側面だと思う。作品は、やはりなにかしらの表現であり、コミュニケーションの手段ではあるのだろうが、しかしそれは、「現在」という時制の縛りから、あるいは時間そのものから逃れるコミュニケーションなのだ。(ぼくは、セザンヌと会うには遅く生まれ過ぎた。しかし、セザンヌの作品は、彼が見たサントヴィクトワール山を、それを見ることで掴まれた感覚を、現在にも伝えている。)
現在つくられている多くの作品は、「作品」というものが、「未だ、ここに居ない者」をひっそりと「待っている」ものだという、作品の最も貴重な側面を、あまりにないがしろにしているように、ぼくには思われる。現代作家の作品が、ただ「現代」を表現するだけのものであるのならば、そんなものは観るに値しない。