スピルバーグの『マイノリティー・リポート』で

スピルバーグの『マイノリティー・リポート』で、プリコグがトム・クルーズと一緒に逃げる場面がある。外界から遮断されて液体のなかに横たわったプリコグの視るヴィジョンは、それ自身としては意味をもたず、プリコグはただ純粋な強度としてそれに貫かれる。そのヴィジョンを解読するのは、それを編集するトム・クルーズであり、そこには、殺人を未然に防ぐという「目的」がある。しかしその目的は、プリコグ自身のものではない。つまり、それ自体としては意味を持たないヴィジョンは、目的に従って編集され、解読されることによって意味をもつ。外界の知覚を剥奪されたプリコグの視るヴィジョンそのものは、それ自体として「現実」との関わりをもたない悪夢のようなものでしかない。
しかし、トム・クルーズと共に追手から逃げるプリコグは、外界の知覚をもち、それと同時に、その知覚のなかにある徴候としての「未来のヴィジョン」を同時にもつ。二人はそれによって追手の裏をかいて逃げることに成功する。ここでプリコグは、知覚と(目的をもつ)運動によってヴィジョンを統合している。外界から遮断されたプリコグのヴィジョンは意味をもたないが、知覚と運動のなかにあるプリコグのヴィジョンは意味に従って構成され得る。プリコグは、トム・クルーズによって強引に連れ出されたのだが、トム・クルーズの逃亡を助けるのはプリコグ自身の意思であり、欲望でもある。プリコグは、自分の意思と欲望によって、ヴィジョンを現実と結びつける。しかし、ヴィジヨンそのものは、必ずしも「トム・クルーズと共に逃亡する」という目的(欲望)に沿って組織されるものではないだろう。それは、液体のなかに横たわっている時と同様、「向こうから勝手にやってくる」もので、プリコグの目的とは関係がない。現実(知覚)とヴィジョンは、プリコグ自身によって調整されなければ、その関係は確定されない。そしてその調整は必ずしも上手くゆくとは限らない。例えば、逃亡の途中、たまたますれ違った女性を呼び止め、その女性に「あなたの浮気はバレる」と口にしたりする。この行為は逃亡(目的)そのものとは全く関係がないばかりか、時間の無駄でさえある。しかし、それをしてしまう。現実の知覚と、そこから導かれるヴィジョンとの混合という、プリコグに与えられる感覚の圧倒的な過剰はおそらく、それ自体としては同等の密度とリアリティをもち、どちらが主でどちらが従ということもない。それは、「目的をもった現実上の行動=運動」のなかに置かれてはじめて、現実に逃げるために、ヴィジョンが利用される、という主従関係がつくられる。だから、その主従関係は時に混乱することは避けられない。つまり、プリコグ自身の内部では、現実の知覚も、ヴィジョンも、同等に、同時に「生きられて」いる。プリコグにとっては、この現在の現実だけが「現実」なのではない。ぼくは、この時のプリコグの「頭のなかで起こっていること」に興味がある。そこには何と過剰で複雑な感覚が渦巻いていることだろうか。(この時のプリコグが生きる感覚の過剰な強さを、リテラルにあらわそうとしたのが『宇宙戦争』なのかもしれない。)
そもそも、人間にとって「現実」は、いわゆる現実だけではない。人は現実と同等な強さで、夢や幻想を生きている。人間は、夢や幻想によってかろうじて現実と折り合いをつけることが出来るのであって、だとしたらその人の生においては、夢や幻想は現実と同等かそれ上の現実性をもつ。夢や幻想はそもそも、現実と折り合いをつけるために生じるのだろうけど、一度生じてしまった夢や幻想は、それ自体として固有の強さをもち、固有の論理をもつので、しばしば現実と対立するだろう。あるいは現実と入り交じって、固有の歪みをつくるかもしれない。しかしそれこそが、人間的な現実なのだ。