何年かぶりで、筆を使って制作した

●何年かぶりで、筆を使って制作した。筆を使うと、やはり画面をつくる時の操作性はぐっと増すのだけど、どうしても画面の上を筆が「滑ってゆく」感覚に信用が置けないと言うか、抵抗を感じることになる。これは「筆」が悪いというよりも、ぼくが、自分の作品をつくるための「筆の使い方」を未だ体得していないということなのだろう。例えば、ピカソの作品においては、画面の上を筆が滑ってゆく感じがあるのだが(この滑ってゆく運動の心地よさがピカソの画面の要素の多くをつくっている)、マティスの筆は決して滑らないで、筆によって置かれた絵の具がそのまま空間を刻むような、あるいは筆の動きがそのまま色彩を練り上げる運動であるような、筆の動きが直接に空間や色彩の把握に結びついている感覚がある。(これは「手技」とは根本的に異なるものだ。)ぼくも一応長年絵を描いてきてはいるので、ピカソ的な筆の運動なら(ピカソほどの技巧はないにしても)、それなりに自在に使えるし、そのような「手の自在さ」に身を任せる楽しさもあるのだが、画面の表面を滑らかに滑ってゆくような筆の動きは、どうしてもぼくが実現させたいと考える絵画空間を「塗り潰して」しまう感じになってしまう。そこで、ここ何年かは、木の枝やボロ布、あるいは自分の指といった、ボソボソとしか絵具のつかない、絵を描くためにはとても操作性の低い描画材を使用して、手技というか、滑るような滑らかさを抑圧すること(簡単に言えばもの凄く描き辛いのだ)で、マティス的な、平面の上に直接に空間を刻んでゆく感覚を呼び出そうとしている訳だ。しかし、この操作性の低さは、これはこれで問題であり、ある特定の「構築の仕方」に縛られ、作品が限定されてしまう。(技法による限定が、感覚そのものをも限定してしまいがちだ。)ぼくが描画する時に木の枝を使うのは、エコロジー思想とは何の関係もないし、自分の指を使うことも、身体の直接的な関与などを主張したいからではない。それは、制作において自分が無意識のうちに使用してしまうクリシェへの抵抗のようなものなのだ。だとしたら、筆だって、「絵を描く道具として普通に使われているもの」とは別の使い方が可能なはずなのだ。マティスがそうしたように。