●ストローブ=ユイレの『アメリカ(階級関係)』について。ドイツ語は分からないので確かめようもないが、この映画の登場人物たちが喋るセリフは、いつもの通りに、恐らくカフカによるテキストと一字一句違いのないものなのだろう。ストローブ=ユイレのリアリズムは、本当らしくみせることではなく、それがそのようにしてあるように撮るということなのだ。だからこれもいつものことだが、人物たちはそれぞれが与えられた言葉を、それぞれが与えられた調子で声にのせるのであって、たとえそれが会話しているように見えたとしても、実は会話など成立してはいない。このような特徴は、ストローブ=ユイレの映画ではいつものことではあるが、『アメリカ(階級関係)』においては、まるで自らの映画のカリカチュアであるかのように、それが強調されているように思う。この映画では、それぞれの人物が皆、自分が置かれている社会的な階層にふさわしい言葉を、ただその形態を忠実になぞるように話すばかりなのだ。上院議員はあまりに上院議員的であり、金持ちの令嬢は徹底して金持ちの令嬢という形態に従う。金持ちは金持ちの言葉を喋り、労働者は労働者の言葉を喋る。ボスはいかにもボス然として振る舞い、小悪党は常に小悪党である。だから、火夫が直属の上司による不当な扱いに抗議してそれを船長に告発したとしても、その場面では、下級労働者がそれに相応しい愚痴を述べ、船長はいかにもボス然としてその言葉を聞き、小悪党である上司はいかにもそれらしく火夫の言葉を押しつぶそうとするといった、ありふれた「劇」が上演されるばかりで、そこで多少の待遇改善などは期待できるかもしれないとしても、「世界のしくみ」が変化するような事態は決して起こり得ないのだ。この世界にはいくつもの異なる言語体系が、それぞれに孤立したままであり、それらは決して混じり合いも影響し合いもせずに、ただ自らをなぞるように再生産されるばかりだ。これが『アメリカ(階級関係)』の世界である。人々が自らの言語体系の内部に納まっている限り、それらの間に成立している階級関係は常に安定している。この映画は、滑稽なくらい自らの階級の原理に忠実な人物たちばかりによって構成されている。そしてそのような人物たちの世界が、いささか原理に忠実すぎるのではないかと思えるくらいの「堅い」演出によって組み立てられ、示されている。律儀に過ぎるような目線のつなぎ、力関係を明確に示す立ち位置の設定(その場の権力を握っている者は必ず部屋の奥で椅子に座っており、権力者に運命を左右される者は必ず出入り口の近くに立っている、など)、空間内での位置関係を常に明確に示すショットの割り方(ロングショットで位置関係を示すのではなく、細かく割ったショットを「教科書通り」ともいえるきっちりしたやり方でつなぐことで、いつも位置関係が明確にしめされる。同軸上の、アクションつなぎなんてのまである。)、等々。『アメリカ(階級関係)』は、観ていると思わず笑いがこみ上げてくるような映画なのだが、それは、登場人物が滑稽なことをするからでも、状況がおかしいからでもなく、この映画を構成するそれぞれのパートが皆、あまりに律儀すぎると思われるほどに自らの原理を忠実に遵守しているということからくるおかしさなのだろうと思う。そのような意味で『アメリカ(階級関係)』は、ヘイズ・コードを遵守することで何とも奇形的なフォルムを生み出すことに成功したスクリューボール・コメディーに近い映画だと言えるかもしれない。ひとつひとつの細部は、30年代のハリウッドでホークスやスタージェスやキューカーによって生み出された異様なコメディーとは少しも似ていないのだが、映画全体から受ける印象は(とりわけホークスのそれに)とても近い感触がある。(この映画が「アメリカ」というタイトルを持っているのは、ただカフカだけに由来するのではないのだ。)
この映画の登場人物たちのなかで唯一、階級が強いる原理から自由であるのが、主役のカール・ロスマンであるだろう。しかし自由と言っても、彼は他の人物に対して少しも優位に立っている訳ではない。彼の自由は、彼がどの階級の言葉をももつことが出来ず、しかだってどの階級にも定着できず常に「追放」されつづけるしかないという、消極的な理由によるものだ。彼は自分自身の言葉をもつことがなく、よって、どのような階級にも定着せずに浮遊し、漂流している。彼の自由は、彼の居場所がどこにもないことによって保証されるのみなのだ。映画の冒頭で、上司から不当な扱いを受ける火夫の抗議の手助けをしようとするロスマンは、その後、ホテルという職場で今度は火夫と同じように不当な扱いを受けることになる。この時、冒頭でのロスマンの役割を引き受けるのが、彼に職場を与えた親切な料理長であるのだが、彼女がロスマンと根本的に違うのは、彼女はたんに社会的に割り振られた「優しい慈善家」という役割を忠実になぞっているだけ(慈善家の言葉を喋り、慈善家のごとく振る舞う)であって、自らの役割からはみ出してまでロスマンを擁護することはない、ということだ。よって、彼女にとっての世界は決して揺るがされることはないのだ。ほとんど冗談とすれすれのような、自らの原理に徹底して忠実な人物たちばかりで構成された「堅い」世界のなかで、ただカール・ロスマンだけが、どこにも居場所を見つけられず、誰よりも弱い立場で他者から翻弄されつづけることによって自由であり、決して形象化されにいような抵抗の線を描きだす。それはちょうど、律儀に「堅く」構築されたこの映画のショットの持続のなかでふいにあらわれる、(これまたいかにもストローブ=ユイレらしい)ラストの、川を捉えた長いトラヴェリング・ショットが、この映画のどこにも位置づけられず、それ自身として不安定でとらえどころのないままで屹立していることと重なるだろう。
●ハッカのような匂いが足元から立ち上ってくる。雑木林の道を埋め尽くす色とりどりの落ち葉の層の表面に、きのうの雨のせいなのか、まだ緑の葉が散って混じっている。ぬらぬらと濡れて輝く。踏みしめると、みっしりとやわらかく沈む。坂を下り、坂を上って、見晴らしの良い斜面に出る。よくはれた青い空にもくもくとした白い雲。ずっと先の線路を電車がはしってゆく。再び茂みに入り、温室の脇を抜けて平地に出る。濡れて土が黒く染まっているサッカーグランドで、土を盛った猫車を押す数人の男たちが、水たまりに土を巻き、スコップて゜土を均したりして整備している。逆行で黄金色にきらきらと輝くメタセコイアの葉が、ちらちらと散りつづけている。赤みのつよいこげ茶色の細かい葉がこんもりと道路に溜まり、それとの対比でアスファルトが妙に青紫がかってぼうっと発光しているように見える。この葉っぱのせいで目がチカチカして変だ、とYさんが言う。