人形町のvision`sの、井上実・展

●人が何故「絵画」を観るのかと言えば、まず何よりもそれが「よろこび」を与えてくれるからだ。よろこびを与えてくれるためには、それが必ずしも特権的な傑作である必要はない。「良い画家」とはつまり、画面によろこびとしか言えないようなある感情を付与する事が出来る者のことだ。しかし勿論、絵画はそれだけのものではない。それは形式や認識、構築に関する考察であり実験でもあるような、高度に知的なものでもある。ハイ・アートとは、たんに社会的に特権を与えられた階層の人たちによって受容されてきたものという意味しか持たない訳では決してない。そこには厳しくかつ激しい鍛錬や実験があり、その高度な達成があって、よろこびや幸福が目的とされている訳ではないのだ。(アートとはなにより不断の実験であり鍛錬であるようなもので、ある問題を解決したり、「現在」を表象したりするためのものではない。)とは言え、その厳しくも激しい探求のなかで、ふと「よろこび」としか言えないものが現れてきた時、それを素直によろこびとして受け取る感性がないならば、絵を描いたり、観たりしたって大して意味はないだろう。
人形町vision`sでやっている井上実・展(〜11/16)に展示されている小さな作品たちが示しているのは、何よりも絵画を観ることによってしか得られないような、あるよろこびの感覚であるだろう。それは決して大袈裟なものではなく、ごく些細なものであり、粗雑な感覚の網の目しかもたない者の認識からはするりと抜け落ちてしまうようなものだ。限られた狭い範囲の色彩のちょっとした揺れや変化、そして対比が、それほど複雑だという訳ではない幾つかの形態の絶妙な配置のつくりだすささやかなリズムや空間の振幅が、激しさとはほど遠い静かな筆致がみせるほんの僅かな逡巡が、どこまでも軽く、濁ることのない澄んだ表情をたたえた画面のなかで、とても豊かな表現となって浮かび上がってくる。それを感じることが「よろこび」なのだ。そして重要なのは、このような澄んだ軽さが、「こういう感じのことをこの程度の精度でやっておけば人はよろこぶはずだ」というような他人の感覚への軽視を含んだもたれかかり(こういう「人気作家」って凄くたくさんいるし、この手の人に簡単に引っかかってしまう観客もたくさんいる。この手の分かり易い「人気作家」に比べると、井上実の作品を「観ること」ははるかに難しい。実際には少しも難解な作品ではないにもかかわらず。)とも違うし、その逆に、玄人や目利きを気取る妙に硬直した頑なさとも無関係であって、あくまである愚直な探求の結果としてあらわれた「澄んだ軽さ」であるように見えることだ。「趣味」という言葉は、「良い趣味でしかない」という否定的なニュアンスで使われがちだし、ぼく自身もしばしばそのように使用するのだが、しかし、過去の作品への絶え間ない参照と、自分自身の制作上の探求によって鍛えあげられた「趣味」というのは、ある価値を共有する集団を前提としたものでしかない「センスの良さ」などとは違って、価値判断の基準としてではなく、制作を推進させる力としても非常に強力な武器と成りうるような、信頼するに足りる強さと厚みをもった何かなのだ。(そのような趣味はもはや特定の他者や集団に依存しない。)井上実の作品からは、自らの手で鍛え上げた「趣味」を信頼し、それを探求の指針として堂々と掲げることの出来る確信の強さと勇気とが感じられる。そうでなければ、ごく小さな画面に、多くの余白を残して、薄塗りの絵の具で、ちまちましたタッチの、植物を思わせる形態や色彩の切片が、ぼそぼそと小声で呟くように描かれているだけの作品が、長い時間見続け、何度も見直す視線に充分応えうるだけの、冴えた感覚や強さや充実を得ることなど出来るはずはないだろう。井上実の探求は、「現在」を手っ取り早く表象することで簡単にひとつの「成果」を手にしようなどという「芸術」を軽視するような野心の人たちの狙う「軽さ」とは、全く対極にある別種の「軽さ」とともにあるように思う。
(今年の2月の、ギャラリー現での井上実・展については、ここ。この時と比べ、数段に作品が洗練されているように思った。)