●10/27の日記に書いた大道珠貴という作家の小説が、『文學界』と『群像』の両方に載っていたので購入する。大道珠貴の『裸』(文藝春秋社)は絶対に面白いと思うのに、人に薦めようにも本屋に本がなくて、才能のある作家をちゃんと「売る」気があるのだろうかと不満だったのだけど、2誌に同時に載るなんて、編集の人はちゃんとみているのだなあ、と思った。たんに偶然かもしれないけど。小説はまだ読んでいないけど、『群像』の方には、芹沢俊介による『裸』の書評が出ていた。しかしこの評はぼくには納得出来ない。芹沢氏は、『裸』に掲載された3編の小説の主人公は、皆「ひとり」でいるという「居方」をしていて、そのなかで他者と出会いそうな予感(なにかがはじまる前触れ)が訪れるのだが、それは前触れだけで終わり、結局主人公は変わらないままだ、と書いている。芹沢氏は一応、この「ひとりという居方」の独自な感触を一定のリアリティのあるものとして評価しているかのように書いてはいるが、全体の調子からは明らかに「何も起らないこと」(物語が始まらないこと)を批判している。しかし本当に主人公は「何も変わらない」のだろうか。確かに、『スッポン』や『ゆううつな苺』の主人公の女性には世界との「遠い」距離感が常にあり、いつも「ひとり」でいるという感覚がある。そしてそのような生活のなかで、何となく好意のようなものを感じている男性(『スッポン』では故郷にいる男たちのうちの一人、『ゆううつな苺』では英語教師)が、主人公の方へふいに距離を縮めて迫ってくるような気配があり、主人公の方も「ひとり」でいるという武装状態を解除し、その接近を受け入れてもよいかもしれないという方向へ心が揺れるのだが、しかし実は、男が距離を縮めて迫ってきたと思ったのは一時の錯覚に過ぎなかったことが判明する。このような何とも「悲しい」展開の機微を、明快にかつさらりと記述できるところが素晴らしいと思うのだが、もしここで、男が主人公を求め、主人公もそれを受け入れたという展開になれば、そこである出来事が起こり、関係が描かれたのだ、なんていう簡単なことにはならないはずだ。むしろそのような「関係」を批判的に捉えていることにこそ、これらの小説の意味があるように思う。そしてさらに、このような接触の失敗と言うか、出来事が起こり損なうという「出来事」が、主人公を変えないはずがないのだ。そこには微妙ではあるが決定的な変化が描き込まれていると思う。『スッポン』では、何とか維持してきた職場での人間関係に決定的な亀裂が入り、もともと持っていた狂気じみた資質が増幅されて、いままで一定の期間で住所を変え、職場を変えてきたという反復が今後も維持できるかどうかあやしい雲行きになって終わるのだし(つまり、いままである程度安定していた「ひとりという居方」がはっきりと揺らいでいる)、『ゆううつな苺』ではそれとは全く逆に、出来事の起こり損ないの後に、ある諦念によってしかもたらされない、悲しくも清々しい「成長」の兆候が描き込まれるだろう。このような微妙な(しかしはっきりと描き込まれた)変質を感知し得ず、ただ物語として大きな進展がないからと言って、「何も起こらない」とするような読み方は雑と言うしかなく、全く納得がいかないのだ。