●藤沢周『箱崎ジャンクション』。ある人が、これは藤沢周にしか書けない小説だ、と言っていたので読んだ。
●この小説は、物語なり、人物の関係なり、何なりが、展開してゆくような小説ではなく、ある一つのモードがずっと持続してゆくような小説だと思う。それはまさに、下半身に鈍く響いてくるエンジンの振動が、小説を読んでいる間じゅうずっと響いているような感じで持続し、読み終わった後にもその余韻が残るというような感じだ。それは主人公を染め上げている一つの「気分」であり、閉塞感であり、希望のなさであり、手応えのない宙ぶらりんの感じであり、それらが一塊になったようなものだと言えるだろう。その気分は、一見、主人公に訪れた外的な条件が原因のようにみえる。
主人公の男は数年前まではバブリーな仕事をしていたが失職し、小さなタクシー会社で運転手をしており、その労働環境も職場の雰囲気も荒んだものだ。その上、奥さんと別居していて、男の手元には男が署名すればよいだけの離婚届が置かれている。確かに、主人公にこの小説の基調をなすある「気分」を強いているのはこのような状況であるだろう。しかし、では、このような状況が改善されたとしたら、例えばもっと良い条件の仕事が見つかり、新たな女性との出会いがあれば、この男の「気分」は解消されるのだろうか。
いや、このような問いは意味がないかもしれない。小説を読んでいる限り、主人公の男はこの「気分」から抜け出すことを望んではいないようにみえるからだ。例えば、男は別居中の妻に対して強い未練を持っているように見えるが、それはあくまで未練以外のものではなく(つまり、過去=記憶の痕跡が現在に強く作用しているということ以外のものではなく)、再びヨリを戻したいという願い(欲望)というような積極的なものではない。あるいは、現在の職場に対して、きついとか、このままではもたないという感情をもってはいても、多少でもマシな別の仕事を見つけようと思っているわけでもない。(男のブリーフケースのなかには、二週間も前の就職情報誌が入れっぱなしになっている。)
この小説には「展開」がないというのは、つまりそういうことなのだ。この男の閉塞感とは、ただ状況によってもたらされただけではなく、むしろ、男の欲望の欠如といったものに起因している。現状に対する不満はあっても、そこから別の状況へと移動したいという欲望がなければ、時間は流れずに、ある一定の「気分」に固着したまま、重たく停滞する。ここには、未来への指向性(欲望)が存在せず、ただ、重苦しい現在と、その現在にしつこく残留し、漂い、作用してくる過去=記憶=痕跡のみがある。(例えば、男は、妻の失禁を、後から、その痕跡としてしか発見できない。)
展開のない、流れない時間のなかに生きる人物は、だからといって立ち止まって硬直するのではない。むしろ漂うようにふらふらと動きつづける。この小説がタクシー運転手を登場人物とする理由はここにもある。彼らは常に移動しているが、その移動は出発点と到着点とで何かが変化するような移動ではなく、客を乗せ、客を降ろす、という行為のたんなる反復としての移動なのだ。だから、タクシーの運転手の移動は、時間よりも空間のひろがりを表現する。
この小説の主人公は、ある空間的な広がりとしての環境のなかを、浮遊し、漂う。ある一定の気分がずっと持続しつづけるこの小説がけっして退屈ではないのは、この、常にふらふらと揺れ動いているような感覚と、その移動によってもたらされる風景が描き込まれているからだろう。その、移動する感覚と、変化する風景によって、ある空間の広がり(環境)がたちあがり、表現される。この小説における環境とは、風景とか地理的なものばかりではない。この小説の登場人物たち、男の妻、岡崎、川上、飯島...、これらの人物もまた、他人との関係によって「変化」することなく、ただある関係のなかで配置されるのみだ。関係は、緊張や摩擦を発生させはするが、変化や展開を生まない。ここでは人物の関係もまた、時間(展開、あるいは歴史)ではなく空間(環境)を表現する。
(主人公の男は、しばしば妻のことを思い、夢にも見るし、妻の新しい男に嫉妬しさえする。しかしだからといって、男は妻を積極的に欲しているわけではない。男はただ必死に「現在」に耐え、現在のなかに散らばって漂い、くり返し回帰する幽霊としての過去=記憶に悩まされているのだ。男にとって現在はただやり過ごすものであり、生々しいのは過去ばかりなのだ。しかし、なにもそれはこの男だけに限ったことではない。この小説の人物は多かれ少なかれ皆そのような人物なのだ。例えば、岡崎という男と再婚しようとしている妻にしても、それは新たなものに向けた関係というよりも、現在という停滞に耐えるためのもののようにみえるのだ。)
主人公の男の気分は、このような環境と不可分であり、環境のなかでかたちづくられ、強化され、環境を構成する一部分となり、環境によって表現される。つまり、この気分は既に、男に属するもの、この男固有のものではない。男は、ただ「気分」のみを重たく保持したままで無名化して、環境のなかへと散ってゆく。男は、ルームミラーに映る自分自身の姿をしばしば眺めるのだが、それは自分を確認するためではなく、自分自身から自分を切り離すためである。自分の外側にある自分のイメージ(鏡像)を利用して、自分の置かれている位置から自分を引きはがし、どこにでもいる(どこにもいない)、誰でもない存在となる。(同様に、川上という人物は、あからさまに主人公の鏡像として設定されている。)それでも男は、妻への執着をもつことによって辛うじて自らの固有性(社会=現実との繋がりを保つ点)を保持していたのだが、離婚の成立でそれすらも失い、あとはただ(どちらがどちらとも言えない)自らの鏡像でもある川上との関係があるだけで、ただ名前のない「重たい気分」となって、環境のなかを移動しつづけるのだった。