大道珠貴

●ここ数日、大道珠貴という小説家ばかりについて書いているのだが、ぼくは『裸』(文藝春秋)に収録されている3編の小説と、『群像』『文學界』それぞれの今月号に載った小説2編を読んだという以外、この作家について何も知らない。しかし、それだけでこの作家の才能の大きさと言うか、懐の深さは充分に理解出来ると思う。ちょっと検索してみたら、こんなページhttp://www.ffac.or.jp/magazine/06/interview1.htmlが見つかった(作家の写真まで載っている)。ここのインタビューによると、何とこの作家は太宰の『人間失格』に感動して文学を志し、19歳で書き始め、24歳ではじめてラジオドラマに採用され、そして『裸』で最初に芥川賞候補になったのが34歳ということだから、無茶苦茶苦労人みたいだ。19歳からずっとこつこつと書き続けているという「手」の達者さと、文学への「志」の妙にナイーブ過ぎるところが相まって、確かに小説の細部に、あまりに律儀に「文学的」過ぎるのではないかと思われる感覚が顔を覗かせ、その感じが同世代の作家達(例えば、吉田修一とか角田光代とか、あるいは星野智幸阿部和重なんかもそうだろう)に比べて、地味で古くさい感じがしてしまい、あるいは小粒に見せてしまうということはあるかもしれない。しかし、そんなことはこの作家の圧倒的な書く力(書くことによってフォルムを変質させる力)からすれば些細なことではないのだろうか。ちょっとした「新しい感覚」など5年も経てば消えてしまう。
11/10の日記にも引用したのだが、ぼくは「群像」に載っていた『ひさしぶりにさようなら』を読みながら、(たまたま読んだばかりだったということもあるが)ドゥルーズの『批評と臨床』に収録されている「文学と生」のことをずっと思い出していた。(それは別に大道氏がドゥルーズを参照しているとか、そういうことではない。しかし、大道氏の記述のあり方が、ドゥルーズ的な実践であるように思えるのだ。)そして、「文學界」の『しょっぱいドライブ』を読んでいる時に何度も想起したのは、「批評空間」3期2号に載った樫村晴香の『ストア派アリストテレス・連続性の時代』というテキストだった。例えば、次のような部分。
【政治社会への認識は、概ね飽和状態にあり、誰もがだいたいのことを知っており、しかしその先の、現実の技術的、経済的、心理的細部は、わからないことだらけであるのも、また人々は知っている。(略)細部の認識は、科学のように、あるいはまさに科学として増進しえるが、それは政治、社会の統括的認識の増進とは、ほとんど常に結びつかない。細かな知識の集積は、現実社会への総合的認識、感情をある時突然変更する。だが、多少の文化的資産をもつ者がいい年になれば、それもなかなか生じないこと、それを知りつつ、その感覚を共有する儀式のように人々は議論し、新たな部分的認識が、凝固した総体的認識を一瞬動かす幻想を楽しむ。政治的事件が与える一瞬の驚きと、それが既存の現実認識に結局吸収される失望と安心は、人々の間の個々の出会いが、彼の独自の自己認識に何も影響しないことの、隠喩である。】(註・これは例の9・11について書かれたものでもある。)
これは一見するとニヒリズムのようにみえるかもしれない。しかしそうではないと思う。例え「新たな部分的認識」が「既存の現実認識に結局吸収される」しかなく「個々の出会いが、彼の独自の自己認識に何も影響しない」のだとしても、「新たな部分的認識が、凝固した総体的認識を一瞬動かす幻想を楽しむ」ことが可能であり、そしてそれが必要とされるという事実が、我々に、「現実認識」がまさに「認識」でしかなく「現実」そのものではないことを常に突きつけているのだし、そこに「認識」には決して還元出来ない「現実」が常に我々を脅かしていることに対する「不安」の感情が不可避であることわも示しているだろう。(「総体的認識を一瞬動かす幻想」こそが、我々がリアリティと読んでいるものなのではないだろうか。)つまり、「細かな知識の集積」あるいは「政治的事件が与える一瞬の驚き」が、「現実社会への総合的認識、感情をある時突然変更する」ことに対する期待と恐れは、我々が生きている限り消すことは出来ないということなのだ。(つまりその可能性は常にある、ということ。)しかし同時に、実際には「それもなかなか生じないこと」という事実も、バカなガキでもない限り、クールに認識する必要があろう。分かりづらく、回りくどい文章になってしまったが、上記の事柄は、ぼくが『しょっぱいドライブ』を読みながら感じていたこととほぼ一致する。大道珠貴の小説は、このようなニヒリズムとギリギリと言えるかもしれないようなクールな認識によって貫かれながらも、その記述することの力によって、生を特異な形態にまで変質させ、輝かせようという意志が漲っている。異様な緊張に貫かれた生の実践=実験。
【真理が可能だとしても、せいぜいそれは、より多く知っている、ということである。私は絶対的に知っているけど、君は何も知らない、あるいは誰それのみが(ソクラテスが?ヘーゲルが?マルクスが?)画期的に知っていた、という幻惑は存在しない。このことは、まさに現在が重要であり、永遠ではなく限定された今の時間で、何を認識し、何をなし得るかだけが大事なのだ、という実践哲学に結びつく。】(樫村晴香)