●油絵具の色で言うと、ライトレッドという赤というよりも赤茶と言うべき色に、イエローオーカーとローシェンナー、少量のホワイトを混ぜ、そこにほんの僅かのカドミウム系の赤を加えたような色(ちょっとでも分量を間違えると赤く「染まり」過ぎてしまう)と言えばいいのだろうか、さらに加えて、その絵の具が乾かないうちに、イエローオーカーとセルリアンブルーを混ぜてつくった黄緑色(コバルトグリーンよりはくすんだ、テールペルトよりは冴えた色になる)を、下の絵の具と混ざるようにして上から置くと、より正確なニュアンスになるかもしれない。レンガ敷きの通りに植えてあるけやきの並木が、今年は寒さが急激にやってきたせいか、例年になくきれいに赤く色づいている。よく見ると赤のなかに多少の黄色味や緑味の残っているのが、さらに赤を冴えたものとして際立たせている。通り沿いの高い建物のてっぺんの屋根(この屋根も赤茶けたレンガ色をしている)で、カーッ、カーッ、ではなく、アッホーッ、アッホーッ、という感じで鳴いていたカラスが、羽根を大きく横に広げたままで地面すれすれまで急降下してきて、再びふわりと舞い上がり、けやきの木の低い枝にとまった。赤く色づいた葉をつけているけやきの枝にとまっているカラスの真っ黒で鋭角的な形は、まるで熊谷守一の絵みたいでやたらとかっこ良かった。
●よく、油絵はヨーロッパから輸入されたものだから、日本の自然な風景や風土を描くのには適していなくて(例えば、日本に帰ってくると描けなくなる佐伯祐三とか)、日本的な風景は日本画のような形式によってより自然に表現される、みたいなことを平気で言う人がいるけど、それははっきりと嘘だと思う。日本画によって描かれた落葉(例えば、恐らく傑作と言って良い菱田春草の『落葉』とか)を観ても、そこでまず見えてくるのは日本画的な形式であり技法であって、実際に山に入って落葉を見たり感じたりすることでもたらされる時の感覚とはちっとも似てはいない。1909年に「日本画」として描かれた菱田春草の『落葉』と、ちょうど同時期の1908年の山脇信徳による「印象派」風の『雨の夕』(共に、国立近代美術館の「未完の世紀・20世紀がのこすもの」のカタログで見られる)とを比べて、どちらが自然か(つまり、どちらが我々の身体が感じる感覚に近いか)と言っても、どちらも自然ではない、と言うしかない。(ただ、山脇の「印象派」よりも菱田の「日本画」の方が、形式として洗練されている、とは言えるかもしれない。)もし、そのどちらか一方をより自然だと感じるとしたら、それが実際の風景(のもたらす感覚)と似ているからではなくて、その「描かれ方」の形式や技法を、無意識のうちに自然として受け入れているからに過ぎない。我々が日々、自分の身体によって感じている感覚と、あたかもそれを自然に再現しているかのようにして、その外側で組み立てられる表象の形式とは、決して滑らかに繋がっている訳ではないだろう。そこには必ずズレがあり、そのズレを意識的に調整すること(チューニングすること)なしには、表象を的確に読みとったり、いきいきとしたものとして感じたりすることは出来ないはずなのだ。にもかかわらず、そのチューニングの作用が無意識のうちに滑らかに行えるようになると、決してそれだけが特別に「自然」なものではないはずのある形式が、あたかもそれこそが「自然」と呼ぶにふさわしいものであるかのように見えてしまう。しかし誰でもが実は知っている通りに、そんなものはたんに「慣れ」の問題でしかないのだ。(それがどんなものであれ、頻繁に触れていれば遅かれ早かれ慣れてしまうだろう。そして一旦慣れてしまえば、慣れなかった頃の違和感やズレはきれいに忘れられてしまう。違和感やズレを忘れないためには、常に形式的な思考を行うことが必要となるだろう。)
つけ加えれば、我々の生きている身体が感じている感覚も、勿論ひとつの表象の形式である。だから問題は、あるひとつの表象の形式と、決して形式化されない外部=現実、というところにあるのではない。問題なのは、複数の表象の形式の間のズレと重なりであり、それら複数の表象の形式を同時に受け入れる時の、あるいはある形式から他の形式へ移行してゆく時の、決して「慣れる」ことのない落差の感覚であり、その落差の感覚こそが、複数の表象の形式のどれでもなく、かつ、それら全ての原因としてある筈の、もの自体としての「現実」のあり方を、辛うじて予感させてくれるものなのだと思う。