国立近代美術館の「連続と侵犯」ガレリア・キマイラの浅見貴子

●国立近代美術館で「連続と侵犯」、ガレリア・キマイラ(http://www.d8.dion.ne.jp/~chimera/index.html)で浅見貴子・展を観た。
●「連続と侵犯」というのは、結局、「私」の連続性であり、「私」と「あなた」の境界線の「侵犯」と言うことであるように見えた。つまりは何とも「エヴァンゲリオン」チックな展示と言おうか、現代美術によくある「私」美術と言うやつだ。こういうのを観ていつも思うのだが、みんなそんなに「私」が大切で、そんなにも「私」ばかりが重大な問題なのだろうか。もういいかげん「わたし、わたし」って言うのは卒業しろよ、と思う。幼稚な「私」ばかりがドーンと拡大されて美術館に展示してあったら、いたたまれなく恥ずかしいとか思わないのだろうか。
とは言え、作家やキュレーターが何を考えていようと、実際に物としてつくられた作品はそれ以上のことを語ってしまったりする。例えば、誰かを撮影した映像は、私やあなたなどとは全く無関係に、被写体の同一性や撮影者の思いなどとも関係なく、イメージとしていくらでも増殖する。同じ人物を撮った写真でも、2枚あれば二つのイメージへと分離する。その2つの顔はもはや被写体とは直接の関係はない。そのような意味で、キャンディス・ブレイツとロニ・ホーンの作品はちょっとだけ面白かった。あと、ロン・ミュエクの作品のように、いくら幼稚な動機によってつくられたとしても、しっかりと作り込まれた「物」は、やはりそれなりに観て面白く、じっくりと観るに値する。(この展覧会については改めて書くかもしれないし、書かないかもしれない。しかし、ぼくがいつも信じられないと思うのは現代美術の「解説文」というやつで、粘土で出来た巨大な顔が「God Bless America」を歌うというだけの映像が、「アメリカ批判」のみならず「批判する側とされる側が複雑にからみ合う世界の様相」を浮かびあがらせる、だとか、囲い込まれた柵のなかに羽根の折れた天使の人形が横たわっているだけで、「さまざまな物語への想像が広がって」「現実の向こうにある、しかしそれゆえ切実なリアルさを持つ世界へと踏み出」させてくれるだなんて書いているけど、そんな事を本気で考えているのだろうか。何でそうなるのかぼくには全然分からない。あと、信じ難く下らない中山ダイスケのペインティングの、どこがどう面白いのか誰かきっちり説明してほしい。最低以下の作品だと思う。)
●浅見貴子の作品は、以前に藍画廊で観たことがあり、気になっていたので、五反田から東武池上線に乗ってガレリア・キマイラまで観に行った。久が原という初めての駅で降りて、暮れかけて薄暗く寒い住宅街を突っ切って歩いた。ガレリア・キマイラは住宅の一部を画廊にしているらしくて、入り口が普通の家の玄関みたいで、どこから入って良いのか分からずしばらくうろうろしていた。どう観ても民家の玄関のような扉を、恐る恐る開けた。
浅見貴子の作品は予想していたよりもずっと良かった。画面には、葉脈のような、枝のような白い線が縦横にはしり、まるでびっしりと葉をつけた木の「葉」の一枚一枚のような、濃淡のトーンの豊かな黒い点が、不均一に散らばっている。その、白い線、余白の白、そして黒い点が複雑に干渉し合い、雑木林の木の葉が風によって揺れるように揺れ動き、葉と葉が擦れ合う音が四方八方から降ってくるようにざわめていてる効果を見せるのだ。ドゥルーズについて書く樫村晴香を引用して言えば、まさにこれこそ「微分」という感覚であり、「言葉(=点)に次の言葉(=点)が重なり、ずれ合い、その相互の差異が直接に生み出す共鳴」によって震動し、「意味はそれぞれの言葉(=点や線)がもつ記憶にではなく、言葉(=点や線のセリー)相互の間の表層にあり、それは反復される音楽のテーマ間の差異-変奏、揺れる木の枝の一瞬ごとの差異-移動と同じである」ような揺れ動く感覚を観る者に与える。画面のなかに入り込むようにして細部を観るとき、濃淡の幅のある黒い点とその余白の白い部分とが複雑に絡まりあっていることら、それを追いかけて把握しようとする視線は、白と黒の絶えず明滅する振動のように細かな、しかし決して一様ではなくムラのあるリズムを知覚し、しかも小さな粒のように画面を埋め尽くす点は常に複数同時に目に入ってくるため、そのリズムも複数のリズムとして感知される。やや引いた位置から全体を眺めようとしても、細かな点とその間の余白が複雑に絡まり合っているため、決して全体を一挙には把握できず、にもかかわらずその豊かで魅力的なトーンの変化によって、観る者を「もっと観ろ、ずっと観ていろ」と誘い込む。これらの作品は、アニメのセル画のように、和紙の裏側から描いているそうで(だから通常の絵とは逆に、一番最初にのせた絵の具の層がもっとも上にあって濃くでていて、後にのせた層ほど薄く掠れて下の方に隠れる)、和紙の裏側から染み出てくる柔らかい絵の具の感触が、視線をゆるやかに誘って、やわらかく包み込む。
浅見貴子の作品は、決して、美術や絵画に、今まで観たこともなかった新しい「何か」をつけ加えるようなものではないだろう。しかしここには、じっくりと考えられ練り上げられた、「観るに値するもの」が確実にあり、そしてそれを丁寧に観てゆくことが、ある「歓び」をもたらすような作品であるのだ。それは、薄っぺらな「私」を性急に、声高に、時に恫喝するように主張しようとする幼稚な「現代美術」とは対極にある。