●『黒揚羽の夏』(倉数茂)。面白かった。自分の頭の「こういうチャンネル」を開いたのは久しぶりかも、と思った。
この小説の不思議な感じは、読んでいる時は、作者の様々な「趣味のもの」のパッチワークであるようなデコボコした感触を受け(天沢退二郎的なファンタジーかと思えば、残酷な事件が起こり、ナマモノ感のある現実的現代的なネタあり、歴史への参照などもあり、そうかと思うとアーサー・ランサム的な細部が出てきたりする)、目の前の像の焦点が結びかけると焦点が移動してしまうという感じなのだが、しかし最後まで読むと、雑多と思われたピースの一つ一つが、一つの(というより、交差する二つの)機械の部品のように過不足なく配置され、かみ合っている姿があらわれる。つまり、きれいに(きれいすぎると思うくらいにきれいに)作品は完結する。最後まで読むことで、作品全体を鳥瞰するような視点が得られる。
不思議だというのはここからで、にもかかわらず、読んでる時のパッチワーク的でデコボコなズレ込んでゆく感じが消えないというところだ。つまり、作品を前から後ろへと順番に読んでいく時の(不確定に開かれた)感じと、結論が与えられることで、事後的遡行的にふり返って結像されるものによる感触との、方向の異なる分裂した二つの作品が読後にあらわれるような感じなのだ。
例えば、途中で元女子プロレスの選手だったという人物が唐突に自分の生い立ちについて語りはじめる場面があるのだが、あー、この唐突さが面白いなあ、と思っていると、最後にはちゃんと、ここで語られる生い立ちが、いくつもの他の細部と響き合い、作品になくてはならない重要なテーマのひとつへと収斂されてゆく。この人物のキャラがそもそも、人物配置上の不釣り合いさの面白さとしてのみ存在していると(途中まで)思っているのだが、ちゃんと物語上の重要な役割も与えられることとなる。
ぼくの趣味(性格?)では、通常そういうことがあるとクサイと思って白けてしまうのだけど(それって「物語の文法、あるいは事情」であって「作品の必然性」じゃないでしょ、と感じられる)、ある細部が、伏線として回収され、ある解決が与えられてしまった後でもなお、その解決とは関係のない、解決されていない状態と同程度の「新鮮さ」が残る感じなのだ。
この小説では、ミステリ的(現実的・合理的)思考の側面と、ファンタジー的(神話的・隠喩的)思考の側面という二つの系列が同時進行し(それは、この小説の分裂した二つの視点、兄の千秋と妹の美和で分け持たれている、そしてササキとアマサワ先生というそれぞれの魅力的な先導者もいる)、それが作品の裏表となり、時に交差する(交差する二つの機械というのはそういう意味だ)。そして、そのどちらの側面においても出来事はきれいに収束し、完結する。まさに、緻密に設計され、練り込まれた作品といえる。しかしそのことによって、逆に、細部の粒立ちのなまなましさは、表面上からは見えなくなるくらいに沈殿しつつも、沈殿するからこそ不気味に存続しつづけるという感じなのだ。人は一見、安心してこの作品の外へと出ていけるかのように見えて、実は、出ていけてはいないのだ、みたいな。
この小説は少年少女小説で(も)あり、出来事は「ひと夏の経験」として完結し、完結によって昇華され、子供たちは成長する。しかしもしかすると昇華などされていないのかもしれない。いや、昇華されたと同時に、されていない。出来事は確かにひとつの図像を結び、一つの解決を得たと言えるのだが、同時に、個々の出来事は、それとは別の図の結像へと導かれる潜在性を捨ててはいない。そういう感じの不気味さが(作品の高い完結性によって、逆説的に、)残る。
(勿論、この「不気味さ」とは否定的なことばかりを指すのではない。例えば、子供たちがアジトでキャンプして料理をつくる場面をほぼ会話だけで描いた部分の躍動的な楽しさは、それ自体として輝いており、作品-事件のどの位置にも「配置」されず、解決も昇華もされない。)
●それはおそらくこの作品の主題と絡んでいることであろう。この作品は「物語」の必要性を強く説いている。物語のない状態とは、作中の「映画」のようなものであり、それは殺人のような痙攣的行為をフラッシュバック的に(制御不可能な形で、自動的に)回帰させてしまうことになる。物語による「枠づける(たかどる)」力が、それを抑制(昇華)するのだ、と。
ササキが千秋に言う、《その気持ちがどうなるのかはわからないけど、今はただ、自分の胸の奥にしまっておけばいいのだと思います》という言葉は、その気持ちが適切な物語によって配置される場所を得、象られるまでの潜在的な待機の時間を言っていると思われる。その不定形な、自身も他人も壊してしまうかもしれないゆらぎは、適切な物語の到来によってはじめて昇華されるのだ、と。それまでじっくり持ち堪えろ(安易な解答-物語に飛びつくな)、と。
だからこそ、その物語の「型(というより、思考の作法というかその「解決法-着地点」)」が「これ(ミステリやファンタジー)」でいいのだろうか、ということが根本的な問題となるように思う。「〜でいいのだろうか」という疑問は婉曲的な批判ではなく、ひきつづきそれについて考えるということだ。「〜でいいのだろうか」は、先取りされた結論(前提された立場)のない問いであり、いつでも、どこでも、繰り返し問われる。