●昨日、書いたこととも関係があると思う。
前にすすむ時間と遡行する時間ということを最近考えている。構造は、いったん成立するとあたかもずっと前から作動しつづけていたかのように作動する。その成立までの過程は、既に構造が成立した地点を収束点として遡行的に捉えるしかなくなる。例えば、自転車に乗れるようになるために様々なトライを繰り返している時間(前にすすむ時間)、と、自転車に乗れるようになった地点から遡行的に見出される「わたしはこのようにして自転車に乗れるようになった」という過程の違い。もしかしたら自転車に乗れるようにはならないのかもしれないという開かれた状態で手さぐりのなか進む時間(過程)と、既に何かが確定した後で遡行的に成立する「真実」としての「歴史(としての過程)」。たぶん人は、この二重の時間を同時に生きている。
ベイトソンは『天使のおそれ』で、ノンコミュニケーションの一つの例としてコールリッジの詩を挙げている。恐ろしい海峡をゆく老水夫。彼がアホウドリを殺したことがきっかけで、彼の乗る船には次々と惨事が起こる。甲板には息絶えた人々の屍が散らばり、老水夫の首には死んだアホウドリがぶら下がる。そんななか、彼は海蛇の群れに出会い、そのあまりの美しさに、自分が置かれている状況を忘れてしまう。《愛の泉が心に溢れて/思わずわしは彼らを讃えた》《その時わしは祈ることができた。/すると首からあほうどりが/するりと落ちて…》。
老水夫が「祈る」ことが出来たのは、彼が「祈ろう」とは思っていなかったからなのだ(《思わず》讃えたことで、祈ることが《できた》)、と。もし老水夫が、海蛇が「神の使い」だとか「自分の守り神」だと思って(知って)いたら、彼はここで「祈る」ことはできなかっただろう、と。《ある種のノンコミュニケーションは<聖>の維持に欠かせないものだとわたしは考える。そうした場合コミュニケーションが望ましくないのは、それがこわいものだからではなく、コミュニケーションが何らかのかたちで観念(アイデア)の本質を変化させてしまうからである》。
このことは、前向きの時間と遡行的な時間の問題として捉え直すことが出来るように思う。おそらく、このような出来事を通過した者は、「海蛇」が自分の守り神であると思ってしまうことを避けられない。朝晩、海蛇に向かって祈るようになるかもしれないし、守り神として自身の身体に海蛇のタトゥーをいれるかもしれない。今度、なにかしらの困難に出会ったとしたら、海蛇に祈ればなんとかなるはずだとさえ、思うだろう。つまり、開かれた、不確定な状態で出会った「海蛇」は、避けようもなく、遡行的に見出された(形として固定した)守り神としての「海蛇」に変化してしまう。聖なるものの観念の変質は避けられない。ノンコミュニケーションは維持できないと思われる。そしてある意味では、その「かたち」こそが困難な時に「人」を支えもする。
しかしまた同時に、人は常に、新たな「海蛇」に、海蛇という形をとらない別の「海蛇」に、常に開かれていることも事実であろう。前に進む時間(過程)のなかにあるものは、すべてがノンコミュニケーションであるとも言えるのだ(だからこそ、そのようななかでは「お守り」としての「海蛇」が必要なのではないか)。
最近ぼくはこの日記で、『輪るピングドラム』という(現在放送中の)完結していない作品について、毎週その感想を書いている。それは、まず何といってもこの作品が素晴らしく面白いからなのだが、もう一つ、それがまだ完結していないということにも意味があると思っている。先がどうなるのか分からない状態で、その時に感じたり考えたりしたものを書いておく。だからそれは、作品が完結した状態から顧みれば、間違いや誤解が多く含まれているであろうし、まったく見当違いのことを述べているだけかもしれない。しかしそうだとしても、それは、その時、それまでの地点で、「ピングドラム」という作品からぼくが受け取った「何か」であることは確かなのだ。そしてそのいくつかは、作品の完結まで観てしまうと(そこで何かが解決・理解されてしまうと)、抑圧されてしまうかもしれない。
勿論、作品を正しく理解するには、それをきちんと完結まで追う必要がある。本を読むというのは、その本を最後までちゃんと読むことである。しかし、完結から遡行される「理解」と、それを実際に追っている時に動いている何か、感じている何かとは、常にズレが生じる。その時に動いているものをすこしでも捉えるためには、何かを感じた時に、そこでいったん読むのを止める(それを解決させない)、ということはすごく重要であるように思う(要約が退屈なのは、それが事後的な視点からしか書かれないからだ)。その時に感じたものが、完結した地点からみれば見当はずれであったとしても(ノンコミュニケーション)、正しい理解よりも重要なこともある。
そして何より、「ピングドラム」という作品は、今まで書いてきた、前に進む時間と遡行的な時間との交錯(衝突、相殺、相互作用…)を、ひとつの重要な主題としているように思われるのだ。