全能感と無力感/榎戸洋司と米澤穂信

●『フリクリ』のvol.1〜3までをDVDでまた観て、あらためて傑作だと思う。
●ところで『トップをねらえ2!』の4話のDVDには、脚本家の榎戸洋司のインタビューが収録されていたのだが、このインタビューを聞いていて、米澤穂信が「ユリイカ」の対談で言っていることと、とても似ている感じがした。実際、二人とも全能感という言葉を使っている。
榎戸洋司は90年代中盤以降の日本のアニメで欠かすことの出来ない存在で(「セーラームーン」「エヴァ」「ウテナ」「フリクリ」「トップ2」の脚本家だ)、米澤穂信もなにがしかの影響を受けているのかもしれない。というか、何も榎戸洋司に限らず、90年代以降のアニメやラノベの多くの作品が、全能感と無力感の間の(両極端の)はげしい振幅を主題にしている。生まれたばかりの赤ん坊は生きてゆく能力をまったく持たず、母親にすべてを依存しなければならない。母親の側は、何もしなければ赤ん坊は死んでしまうので、付きっきりで世話をせざるを得ない。つまり赤ん坊は無力であることによって母親を拘束し「支配」する。(お前が世話しなければ死んでしまうぞ、というのはほとんど恫喝でさえある。)赤ん坊は、気に入らなければ、泣き叫べば母親が何でもしてくれると思っている。極端なことを言えば、満腹になりたいと「願って」泣けば、それはほぼ母親によって叶えられる。(「強く思えば願いは叶う」っていう感触は、おそらくこの頃の名残りとしてある。)だがもし母親が赤ん坊を無視すれば、赤ん坊はまったくどうすることも出来ない。このような支配(全能感)と依存(無力感)の感情こそが、生まれた人間が他者に対して最初に持つ感情であり、欲望である、ということになっている。アニメでロボットを操縦するために「選ばれた」少年少女たちは、彼等がいなければロボットは動かないので、その特殊な資質によって大人たちを超える力を持つ特別な存在である(全能感)が、一方、彼等には戦う動機もなければ、その意味も分っていなくて、実際は大人の都合で振り回され、利用されているに過ぎない(無力感)ということもまた、充分に自覚されている。彼等は、自分が特別な存在であることによって凡庸な大人たちを見下しているが、実際には大人たちから「愛される」ことのみを望んで行動しているとさえ言える。この、全能感と無力感との激しい落差や振幅は、十代の少年少女がもつ、過剰な自意識とはげしく共振するだろう。このような振幅を物語として形にし、かつ、全能感と無力感とのせめぎ合いとは「別の次元」へと成長してゆく少年少女を描くことが最も巧みな一人が榎戸洋司だと言えよう。(その限りにおいてはやはり、アニメやラノベは基本的に子供向けのものなのだ。)
だが、アニメにおいては、それは内面的な空間として表象されることが多い。多くのアニメがSF的な意匠を採用するのは、それが、物語を内面の比喩として機能させるのに適しているからだろう。しかし、それが比喩的な空間であることは、そこに人の感情を呼び込みやすいという利点をもつが、最後の段階で果たされなければならない、そのような空間からの「脱出」を描くことを困難にする。というか、そこからの脱出もまた、脱出の比喩でしかないということにもなる。(凡庸な作品はしばしば、挫折を超えてもなお、自分の意志で「強く願えば願いは叶う」っていうところに落とし込まれがちだ。それでは全然「脱出」出来ていない。)「エヴァ」の最大の失敗は、最後の脱出に至ることなく頓挫してしまった点であり、そのために多くの観客をその作品内部に置き去りにしたまま終了してしまったことだろう。
米澤穂信のあたらしさは、それと同様の主題を、あくまで現実的な空間を舞台にし、ミステリという理知的な形式によって描こうとした点にあるだろう。『さよなら妖精』のマーヤは決して、特殊な能力をもっているわけでもないし、美少女ロボットでも、異星からやってきたキャラでもなく、現実に存在する場所からやってきたのだし、彼女が背負っている戦争は、決して内面的葛藤の比喩としての戦争ではなく、実際に90年代にこの世界で起こった戦争である。それは現実と地続きの場所が舞台であるから、その解決もまた、現実的な手続きのもとで、現実的な場所でなされるしかなくなる。問題は決して、作品の内部では解決されないが、そのことで、読者を作品内部に置き去りにすることにはならない。作品を組み立てる技術や技法が、(そのまま、というわけにはいかないが)現実に対する(接する)時の技術や技法へとのつながり得る。(一方、榎戸洋司は、「トップ2」のラストや、最近の『桜蘭高校ホスト部』などをみても、かつての自作の縮小再生産のように見え、行き詰まってしまっているように感じられる。)
●ここまではあくまで「お話」の次元での話だ。アニメは「お話」だけで出来ているわけではない。キャラクターやロボットの造形や、その動きの質、疾走や落下や浮遊や衝突や爆発といった、アニメならではの表現のテクスチャー、あるいは舞台となる世界の細部にまで渡る設定、声優や音楽など、様々なものの複合で出来ている。それらは、あるひとつの作品だけで完結するものではなく、先行する様々な作品が参照され、変形され、ブラッシュアップされてつくられる。アニメの細部は、必ずしも「お話」のために、あるいは主題のために、それに従属してつくられるのではなく、それ独自の影響関係によって生まれ、また、そこに技術的な進化の影響が加わる。作家としての庵野秀明が凄いのは、それらの全てを強引に、作家としての自らの主題に従わせるように配置させることが出来るということだろう。どちらかというと、自ら作品世界に(その主題に)没入して、独裁者的な統率力でまわりを巻き込みつつ作品を引っ張るタイプなのではないだろうか。しかし、「トップ2」や『フリクリ』の鶴巻和哉はそうではないようにみえる。作品を自らの作家性や主題に従属させるというよりも、それぞれの細部が、それぞれに充実するに任せるというか、それぞれを割と勝手に走らせるような感じがあるように思える。そのために「作品」として散漫になっても、それはそれでいい、という感じなのではないだろうか。
フリクリ』は、榎戸洋司的な思春期の全能感と無力感との間の振幅という主題を含み持ちつつも、必ずしもそこに収束されない、あまりに拡散的で豊かな細部をもっている。しかし、それはたんに細部が細部として充実し乱舞するだけのマニエリスム的な空間ではないように思う。ここでは、あくまで作品を貫き、あるいはこの作品全体が生まれ、動いている動因としての「主題」(作品という欲望を支えるもの)は生きている。(基本的に少年の成長の話だという芯がある。)かといって、あらゆる細部がその主題に従属しているわけではなく、いろんなところでいろんなものが勝手に動き、意外な展開をみせてもいる。作品を動機付け、観客をひきつける主題の磁力と、そこから逸脱し、勝手に展開しつつ充実する細部それぞれの動きとが、奇跡的に拮抗しているのが『フリクリ』なのだと思う。あるいは、この作品のあまりに散漫に拡散する細部を纏めているのは、非常に強く作用する(故に、人をある隘路に閉じ込めてしまいもする)感情なのだが、しかしその感情は、細部の勝手に動き回り、充実する力によって散らされ、作品は多方向に開かれ、人が作品の内部に置き去りにされることはない。(その組成の複雑さと密度が、「現実」と拮抗するほどのものとなることで、リアリズムとは全く別種のリアルさを生んでいる。05/06追記。)