⚫︎我々は、ある作品を(あるいは、あるテキストを)、雑に読むこともできるし、丁寧に読むこともできる。大仰な言い方をすれば、どこまでも際限なく雑であることもできるし、どこまでも際限なく丁寧であることもできる。では、極めて雑であることから極めて丁寧であることまでの、とても広いグラデーションの中の、どの程度に雑であることが、あるいはどの程度に丁寧であることが望ましいと言えるのか。
客観的、外的に決定できるような、いつ、どんな場合でも適切であり、正しいと言えるような、雑さ / 丁寧さ の度合いというものがあるわけではないだろう。その都度、その時、その場面によって、そのたびに異なる適切な 雑さ / 丁寧さ の度合いがあり、それはその都度、文脈的、相対的に決められる(判断される)以外にないだろう。場合によって、雑であることがかならずしも悪いということにはならないし、丁寧であることがかならずしも良いということにもならない。
場面によっては大胆に雑である必要があり、場面によってはうんざりするほど執拗に丁寧である必要がある。中庸であることが望ましい場合もあるだろう。
(その「作品そのもの」が、内在的に、読みの 雑さ / 丁寧さ の度合いを決定的に指定しているような場合もあるだろう。しかし、その「内在的指定」に従うことが適切であるかどうかの判断が、外的な文脈によって揺らいでしまう場合もあるかもしれない。)
(というか、ある程度の雑さに対しても、ある程度の丁寧さに対しても、どちらに対してもかなり広い範囲である一定した「質」の恒常性を示す柔軟さ・ロバスト性を持つものが「優れた作品」であるとは言える。そのような、作品のロバスト性への信頼があるからこそ、その「読み」について、時に雑であり、時に丁寧であるというような柔軟な態度で臨むことが可能となる。)