⚫︎「彼の身体の動きはどこまでも単調で歯車のように永遠と一定だった」というような文を読んで、えっ、となって目が止まった(事情により、オリジナルから改変してあります)。
例えば、美味しいものに対して「永遠に食べられる」みたいに、「永遠」をすごく軽く使う人がいるのは知っている。これは「神」とか「天才」とかをすごく軽く使うことにも通じていて、無限、特異点、規格外のものという尺度を無自覚に規格内の価値観に置き換えているような用法で、「すごいもの」のすごさをすごく軽く見積もっているみたいで嫌なのだが(とはいえ、数学や物理学では無限を有限の中に繰り込むという操作は普通にやられているが)、ここまでくるとちょっと違ったニュアンスが見えてくる。
(ぼく自身も、アイロニカルな感じで「神回」くらいの言葉は使うが。)
「永遠に一定」ではなく「永遠と一定」で、この「と」の示すニュアンスに独自なものがある。「永遠に一定」だと、普通に「決して変わらない」という意味になって、言葉として特に違和感はないが、動きの緩急を欠いた単調さを表現するというニュアンスからはややズレるように感じられる。
ここには、無限の有限化とはまた別に「永遠」と「延々」との、音の類似を媒介とした混同的な置き換わりがあるのではないか。「永遠と」という言い方はあまり耳馴染みがないが、「延々と」とは普通に言う。「延々」という語には、うんざりするような「単調である」というニュアンスが含まれるが、「永遠」には「単調」というニュアンスは通常は含まれないように思う。
「延々」の言い換えに「永遠」を使うという感覚もまた、無限の有限への折り込みによる矮小化に通じてもいるが。
このような、形容のインフレーション的な価値の引き下げは、「東大生クイズ王」とか「最年少でボン大学教授就任」みたいな権威主義的表現とも、密接に絡まっている感覚のように思える(これらは、あらゆる判断を「規格内基準」でのみ行おうとする態度でもあり、それは同時に「表現=判断における度合いの適切さ」に対して自分・判断主体が責任を負うことの回避にもつながっているのではないか)。
ただ、以上のような分析とはまた別に、「永遠と一定」という表現は、ただこれだけを見るならば、独自の味わいのある表現になっているようにも思われる。
⚫︎この件については、ちょっと検索すればたくさん出てくるくらいに、すでにいろいろ言われているのだな(「車輪の再発明」みたいなことを書いただけなのかも)。ドキッとして立ち止まるくらいに際立った表現かと思ったら、すでに紋切り型なのか…。
下にリンクしたテキストでは、「永遠と」と「延々と」とは、(1)音の類似、(2)文法上の振る舞いの一致、(3)意味の一致があり、故に置き換えは可能だと(置き換えを拒否する根拠は教養主義しかないと)しているが、(3)にかんしては、有限と無限という決定的な意味の違いがあるのではないかと思う。「永遠」は厳密に無限なものにだけ適用される語ではなく、比喩として「有限であってもあたかも無限であるかのように長い時間」を表すことがよくあるとしても、そこには明らかなスケール感の違いがあると思うのだが。ここには「表現=判断における度合いの適切さ」にかんする問題がある。
⚫︎つまり、ここから考えるべきことは、無意識的にだとしても、多くの人々が、明らかに「表現=判断における度合いの適切さ」を壊そうとするような言語行動をとっているというとき、それがどのような欲望に導かれて行われているのか、ということなのだろう。
(多くの事柄は、シロかクロかでは判断できず、グラデーションの「濃度」こそが重要だと思うので、度合いの適切さの破壊というのはとても危険なことだと思うのだ。)