●『論理パラドクス』(三浦俊彦)を読んでいたら、最初のところに、自己言及に関するいわゆる「嘘つきパラドクス」は疑似パラドクスでパラドクスではないと書いてあった。「すべてのクレタ人はウソしか言わない、とクレタ人が言った」という文を仮に「真(ホントのこと)」と仮定すると、発話したのはウソしか言わないクレタ人であるはずだから矛盾する。しかしこれが「偽(ウソ)」だとすればどうか。「ウソしか言わない」がウソだとしたら「すべてのクレタ人はホントのことしか言わない」はずだからこの発言と矛盾する、となるのか。だが「ウソしか言わない」がウソ(偽)だということの意味は、中には本当のことを言う人もいる、時には本当のことを言うこともある、ということだから、ふつうに成り立つ。故にこの文はパラドクスにはならずたんに「偽」である文にすぎない。つまり、この発言をしているクレタ人がウソをついているだけだ、と。
「私は常にウソを言う」という文が「真」だとすると「常にウソを言う」ということと矛盾する。しかし「偽」だとすれば「常にウソをつく」わけではない、たまには本当のことも言う、ということで成り立つ。だからたんに「偽」である文にすぎずパラドクスではない。「私は常にウソをつく」の否定は「私は常に本当のことを言う」ではなく「常にウソをつく」わけではない、となるのだ。
では、「私のこの発言はウソである」という文はどうか。ここでは「この」によって文全体が指定されるから、この文を「真」と仮定すると「ウソである」と矛盾し、「偽」であると仮定すると「ウソでない」ことになるので矛盾する。これこそがパラドクスであろうか。だが、これも違うと言う。これはたんに「真でも偽でもない」文にすぎないのだ、と。
「窓を開けてくれ」のような命令文や「彼は優しい」のような曖昧な文、あるいは無意味なナンセンス文(「色のない緑の概念が猛然と眠る」のような)などのように「真偽のない文」はいくらでもあり、「この発言はウソである」もそのような真偽のない――ホントでもウソでもない――文の一つにすぎない、と。
では、「矛盾する」文とはどのようなものなのか。たとえば「この発言はホントではない」という文を考える。これを「真」と仮定すると「偽」となり「偽」と仮定すると「真」となることから、「この発言はウソである」という文と同様に「真でも偽でもない文」といえる。しかし、この文が「真でも偽でもない」文なのだとすると、「ホントではない」という意味と矛盾せず合致するので、この文は「真」であることになってしまう。しかし、「真」と確定してしまうと「ホントではない」と矛盾する。これが「矛盾」である、と。
だがこの矛盾も、実は大して複雑なことではない、とされる。
《どんな発言も、「この発言はホントです」という言外の含みを必ず持っているので、「私のこの発言はホントではない」は、「私のこの発言はホントであり、ホントではない」という単純な矛盾に帰結する。》
要するに、「私のこの発言はホントではない」という文の論理的な構造は「今、東京は雨が降っており、雨が降っていない」と同じであるというとだ。
(同様の文に、「私のこの発言はウソであり得る」がある。これが「真」だとすると、真はウソではないが「ウソであり得る」ことは排除しない(ウソであり得るがウソでないは、真である)から成り立つ。「偽」だとすると「ウソでありうる」ことはない、となるので「真」となってしまい矛盾する。故にこの文は「真」である。しかし、「真である」と確定してしまうと「ウソでありえる」ことができなくなって矛盾してしまう。)
つまり、「私は常にウソをつく」「私のこの発言はウソである」「私のこの発言はホントではない」という、ほぼ同じ感じに思える三つの文は、しかしそれぞれ論理的な構造が異なる、ということだろう。これをややこしく感じるのは、我々が普段使っている自然言語においては、このような論理構造の違いが意識されない(別の原理の方が強く作動している)からだと思われる。
ここでチョムスキーを思い出してみる。チョムスキーは「色のない緑の概念が猛然と眠る」という例文を挙げ、意味がわからなくても「文法的に正しい」と分かる文があることを示す。
(1) Colorless green ideas sleep furiously. (2) Furiously sleep ideas green colorless.
(2)はたんに意味のない語の羅列であるが、(1)は無意味だが文法的である。意味が分からなくても「文法的に正しい」文に人は反応する、と。そして、酒井邦嘉の研究によると、無意味だが文法的な文には、脳が有意味な文と同様の(たんなる語の羅列とは異なる)反応をみせるという。つまり、文法的であるかどうかの判断は無意識のレベルでの反応である、と。
(酒井邦嘉の研究についての出典は、以前ニコ生でやっていた「全脳アーキテクチャ勉強会」の中継で観た時の記憶、というあやふやなものなのだが……。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20150205)
おそらく、我々が普段使っている自然言語においては、意味構造や論理構造よりも文法構造の方が強いのではないか。というか、自然言語は文法構造に強く依存しているのではないか。それは、おそらく文法構造が長い長い進化の過程で人類が獲得したものであるからだろう。文法構造は脳=身体に刻み込まれている。だから子供は、いとも簡単に言語を習得する。対して、論理構造は、文明の発展のなかで、(脳の外、身体の外において)少しずつ発見され、構築されてきたものなのだろうと思われる。だからそれは脳の外に人間の身体とは別の形で構築されていて、後天的に学習される必要がある。
我々はつい簡単に「言語」と言ってしまうが、そこには、文法的(脳=身体的)構造の側面と論理的(外在的)構造の側面という、出自からしてまったく異なる、二つの別の原理が働いているのではないだろうか。だから、自然言語を用いて論理的に考えようとすると、無駄にややこしくなって、間違いも多くなってしまうのではないか。あるいは、過度に論理的に書かれた文に、ある種の違和感、抵抗感、もしくは嫌悪のようなものさえ感じてしまうのは、我々が強く文法構造に支配されているということではないか。
(小島信夫が書く「私は長編を書くが短編は書く」のような文は、過度な論理構造の強調とはまったく別の方向から、文法構造に強く揺さぶりをかけてくる。論理とも身体とも別の「表現」の領域がここにあるのではないか。)